2014年10月15日水曜日

Paris 私的回想録 - 13 区 -

メトロの駅を地上に上がるとそこはイタリア大通りとトリビヤック通りの大きな四つ角の交差点だ。そこからトリビヤック通りを南にずんずん歩く。この通りは三車線の少しゆったりとした並木道の通りで、駅から歩いて薬屋や大きな八百屋を過ぎたあたりから、何やら中華料理屋やベトナム料理屋のがネオンの看板が多く目に入ってくる。初めて足を踏み入れたカルチエなので、京子さんが歩く方向にわたしはただただ付いていく。京子さんの年齢はわからない。見た目は同い年くらいに見えるがおそらく7,8歳離れていたと思う。多分知り合い始めの頃に年齢を聞いたかもしれないが、忘れてしまった。彼女はParisで美容師をしている。
わたしの入居と入れ替わりで日本へ帰国した友人がアパルトマンの鍵と一緒に、電話番号とKyokoと書かれたメモをくれた。
「ここに電話してわたしの紹介ですって言えば、大丈夫。とにかく、フランス人に髪の毛を切ってもらうのは止めといた方がいいよ。」 その電話番号が京子さんの携帯番号だった。

 
京子さんと初めて会った日に、それまでボブのストレートヘアだったわたしは、彼女に強いパーマをかけてもらった。なぜだかわからないがParisに住み始めてから無性に強いパーマのかかったスタイルにしたくなった、というのを京子さんに言うと、彼女は笑った。日本人の若い女性はほとんどが栗色に髪を染めて パーマをかけたとしてもゆるくふんわりとした、いわば欧米人のようなヘアスタイルを希望するそうで、そうかと思えばParisに長く住む日本人女性はほとんどが黒髪のストレートロングヘア志向の人が多いらしく、京子さんはそのどちらでもない趣味のわたしを面白がり、「久しぶりにこんな強いパーマをかけられる~!」なんて楽しんでくれた。その日から京子さんとは時々ご飯を食べに行ったりお茶をしたりする仲になった。

ところでParisに長く住むと日本人はなぜかみんな「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスをおのおの持つようになるようなのだ。色んな人が、あそこがParisで一番美味しいPhoを出すお店だよ、と言うのを聞いた。
わたしはというと、結局帰国の日まで、「自分の一番美味しいPhoの店」を持つことはできなかった。どこのを食べても美味しいし、だけどまあまあ似たような味に感じていた。わたしが思うにおそらく「Parisで一番美味しいPhoの店」のアドレスを持つということは、Parisに住む年月に深くかかわっている。それは醤油味に似た味わいを欲し、自分の欲求を納得させるほどのアドレスを見つけることへの切実な探求あってこそなのだ。1年やそこらでわたしはそんな切実にアジア味を恋しくなることはなかった。食べれたら食べるでいい、食べられないなら別にそれはそれで構わなかった。


というわけで、その日わたしは京子さんに誘われて彼女の「Parisで一番美味しいPhoの店」に行くことになった。彼女のPhoの店は、Parisでも一、二を争うくらい有名なPhoのお店のすぐ隣にあった。その有名なPhoの店はいつ通りがかっても、店の前に長い行列ができている。彼女曰く、その有名な店のPhoはツーリスト向けなのだそう。とはいえ、以前彼女もその”ツーリスト向け”のPho目当てで来た時、その長い行列を見てあきらめ隣の店に入ったところ、このParisで一番美味しいPhoに出会ったのだそうだ。
目の前に出てきたのは真っ赤なPhoだった。唐辛子がふんだんに入った、Phoにしてはこってりとした濃厚なスープで、ふたりしてふうふう汗をかきながら食べた。スタンダードなPhoではないが、なるほどクセになるような、何ヶ月かに1回くらい無償に食べたくなるような、そんな味だった。


フランスには、旧植民地であったベトナムから移住してきたベトナム人が多く暮らしている。特にこのカルチエは、フランスだと思えないほどベトナム料理屋や中華料理屋がひしめくように並び、ベトナム人や中国人がたくさん住んでいる。看板の派手な色の組み合わせや、聞こえてくる中国語かベトナム語かだかの喧騒はまたたくまにアジアの街にトリップしたような気にさせる。そして歩いているとなんだか不思議と元気になるのだ。そんな時、やっぱり自分はアジア人なんだななんて感じる。


Parisに住んでいた間で、Parisに住むいろんな日本人と知り合いになった。Parisに来て何ヶ月かの人、3~4年くらいの人、十年以上も住んでいる人、何かを志して修行中の人、学生、駐在員、その家族、自分の店を経営している人、フランス人と結婚をしている人、ビジネスマン、アーティスト、同時に色んなところで色んなことをしている人、日本人同士でいるのが大好きな人、日本人が嫌いな人、Parisじゃないと生きていけないという人もいれば、日本に帰りたいけどなぜかここに居るっていう人もいた。そして全員が程度はあるにせよ、フランス語を話す。それぞれがそれぞれ独特の訛りを持って。
わたしは、彼らと一緒に居るのが楽な時もあれば、フランス人の友人と居る方がしっくりくる時もあった。
そしてわたしはそれぞれの日本人たちと関わり合うなかで、その人たちがふわりと身にまとっている、Parisの街の独特のオーラを感じをうけるようになった。たまに日本から友人たちが旅行で来た時、その友人たちの日本から持ってきたオーラは、Parisに住んでいる日本人たちのそれとは違いすぎて、どちらがいいとか悪いとかそういうのではなく、ただただその違いを感じてはわたしはなぜか自分だけがどちらでもなく、ひとり漂っているような不思議な感覚になっていた。

そういう感覚が強くなる時、こんなアジアのどこかのような、それでいてアジアのどこにもないような場所に来ると、なぜだかほっとするのだ。
ここもまぎれもないParisの一角。





2014年10月8日水曜日

Paris 私的回想録 - 16 区 -

Paris 16区(2010年 6月)

「パレ・ド・トーキョーの今度の展覧会の出品作品に選ばれたんだ」
いつも冷静で物静かなモトがその日は少しだけ興奮してわたしに言った。
パレ・ド・トーキョーというのは、現代美術を取り扱う16区にある美術館のこと。モトはわたしと年齢がひとつ違いの日本人で、Parisで友達になった。彼は高校を卒業してからずっとフランスに住んでいるので、もう15年以上もフランスにいる。フランス語で会話することもまったく問題がないし、それはそれは綺麗なフランス人の奥さんまでいる。彼の職業はアーティストで、主に彫刻作品を制作している。その彼の作品がパレ・ド・トーキョーと、隣のパリ市立近代美術館の、2会場共催による大規模なグループ展に出品されるというのである。

その展覧会開催の前日、関係者だけが招待されるプレオープンの夜に、モトはわたしを含め彼の友人たちを招待した。彼は日本人が経営するレストランで働いていたので、わたしやその友人たちは日本人同士の仲間で、その展覧会にかけつけた。
2会場共催ということで、作品もかなりの数で見ごたえがあり、夜中12時の美術館の閉館時間までみっちりと作品たちを堪能した。閉館時間を過ぎると、パレ・ド・トーキョーとパリ市立近代美術館の中庭全部がDJブースとなり、パーティが始まる。人の多さと熱気のせいで、Parisにはめずらしくビールがよく合う夜だった。ギラギラに点灯したエッフェル塔がのぞく中庭で、踊ったり話したり、銘々に楽しんだ。
そして、作品もパーティも存分に楽しんだわたしたちは、その後、モトの美大時代からのアーティスト仲間であるフランス人たちを交え、7,8人でビストロへ行こうということになった。

 
ビストロに着き、7,8名ということで店のスタッフは手際よくいくつかのテーブルをひとつに並べ、全員がひとつになって座れるようにセッティングをしてくれた。モト以外のわたしたち日本人は左側に固まって座り、フランス人たちはモトを囲み右側に座った。わたしはその左側の端、ちょうど全員が見渡せる誕生日席のような場所に座った。
そのフランス人の中には、その内の誰だかの彼女とかで唯一女性がひとりいた。いかにもパリジェンヌといった白地に細かい柄の入ったワンピースと金髪を無造作にシニヨンにした髪、赤い口紅のフランス人女性だ。おそらくその彼氏が呼び寄せたのだろう、彼女はわたしたちが席について20分ほどしてから店に着き、自分の彼氏やモト、顔見知りの友人たちに挨拶をし、席についた。

わたしたち日本人とフランス人はモトを囲んで全員で話が盛り上がる、なんてはずもなく、左と右に分かれた。いや、実をいうと完全に分かれていたわけではなく、左側の日本人グループは右側のフランス人たちの会話に入っていこうとするのだが、いかんせん日本人全員が、程度はあるにせよつたないフランス語しか話せなかったので、結局会話は途切れ、フランス人同士だけで話が盛り上がる。フランス人たちがモトを囲んで盛り上がっている話題は、その展覧会について、その作品たちについて。
そしてその彼女は、その会話に入っていけない日本人たちを完璧に無視の態度だった。日本人のひとりが会話に入ろうと話かけても無視、目も合せない、というか顔すらこちらに向けない。日本人が話し、もし他のフランス人たちが少しそちらに耳をかたむけたとすると、ひとり不機嫌そうに下を向いて爪をいじる。とにかく無視。
わたしはその女性の態度と、そしてその態度をガンガンに感じているにもかかわらずそれでもへらへら笑いながらがんばって会話についていこうとしている日本人(わたしの友人たち)の態度に、居心地の悪さを覚えた。イライラした。べつに無理して会話なんかに入らなくてもいいじゃないか。

そして少し経ち、話に時々入ろうとする日本人たちを無視し続けることに限界がきたのか、もしくは同じ空気を吸うことに限界がきたのか、彼女は突然椅子から立ち上がり、彼氏に不機嫌に「帰る」とだけ言い、さっさとひとりで店を出て行ってしまった。彼氏も取り残された後、首をかしげていた。


何の理由で彼女はわたしたち日本人を完全に無視していたのだろうか?
わたしたちが日本人でなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
もしくはわたしたちがフランス語でのコミュニケーションに全く問題がなければ、彼女は楽しく会話をしたのだろうか?
彼女が去った後もわたしはそればかりを考えていた。


フランスの中でフランス語が自由に操られないということは、相手に意見をする術を持たないということだ。(お互いが英語等他言語を話せるならそれはまた別。ただし、英語を流暢に話すフランス人は全員というわけではない。)
自分の意見を伝えないということは、フランスでは自分の意見を持たないのと同じこと。自分の意見を持たない者は、フランスでは対等には扱ってもらえない。
自分の立ち振る舞いや態度、フランス語を話すことの姿勢については、こりゃ軸をしっかり持たないとこの国では舐められるな、なんて、この夜の悔しさはわたしをしゃきっとさせた。

それと、フランス人はよく喋る。何をそんなに一所懸命話すのかと思うほど、本当によく話す。内容はどんなものであれ、もちろんその年代や、知識の深さなどにもよるが、だいたいが「自分はこう思う。」「あれのこういうところが自分は好きだ。」などというように自分の意見を話す。
直接的に相手に伝えること自体の善し悪しは別として、自分の意見を持つということについては、大人として基本的なことだと改めて思い直した。


もちろんあの彼女の”完全無視の態度”が「フランス語を話せないこと」ではないかもしれないということも大きく考えられた。なんとなくだが、彼女はわたしたち日本人が意味もなくへらへらしている態度そのものに”ダサさ”を感じ、イラっときたのではないかとわたしは思っている。まあ、わたしから見ても自分も含めて、格好よくはなかったと思う。
フランスに住むようになり、親日家のフランス人というのはけっしてマイノリティなわけではないことがわかった。親日家ではない人は、アジア人の区別なんてつかないのは当たり前。フランスに住むようになり、自分が有色人種であることを認識するようになったし、差別の対象になり得ることも知った。

外国に住むということについて、人それぞれにいろんな考え方があると思うが、わたしは、一種、腹の底に力を据えて、その上で柔軟な姿勢を保つというような感覚が必要だと感じた。まあ外国に住まなくたって、いつだってどこだって同じなんだけど。


Parisに住むと、くっそー!と悔しい思いをすることがたくさんあるが、どちらにしても態度で、言葉で意思表示をしないと、ただ無視されて終わるだけ。言葉を習得して出直すしかない。
ただ、もしかしてこの悔しさエッセンスも、Parisの魅力の一部なのでは...なんて思うのだ。