2014年11月11日火曜日

つながること、つながっていること

だいたい2年ほど前、今まで「自分だ」と認識していたものを超えた自分の中の存在に触れてから、自分の中でいろいろな物の見方が変わってきた。自分がそれまで認識していた世界には枠があったということを知ると、その枠の外側にあるものたちが見え始めた。そのものたちは以前からすでに存在していた、同時にそれは自分も本当は随分前からそのことをすでに知っていたということも認識すること。
その存在たちとつながっていることをもっと深く知りたい。体にすでに蓄積されているその遠い記憶はいったいどのようなものなのか。
1年くらい前、恋人とふたりでとりとめもなく話をしていた時、彼にそういうことを喋っていたと思う、彼がふとわたしに「君の考え方はヨガとか仏教の考え方に近いような気がする。一度勉強してみたらきっと面白いと思うよ。」と言ったことがあった。


なんとなーく彼がわたしに言ったことが頭の中に残ってはいたが、その時はまだピンとはきていなくて、ヨガ?仏教?はて?だった。それから何ヶ月か経ってから、このブログに身体のことと自由のことについての記事を書いた時、その記事の内容について、わたしが個人的に大好きな素敵な知人が「わたしがヨガで理解できたこと。修行せずにすごい。」というコメントをくれたことがあった。その知人はヨガの先生で自分のヨガ教室を持っている。
わたしはヨガを学んだことが一回もなかったし、子供の頃からひとりでに感じていた感覚とか考えていたことをようやく自分の中で人に伝えることができるような言葉で文字として表現してみただけのことだったので、そのコメントにはびっくりした。

大切だなと感じていることは、気を整えること。自分の内に眼を向けてそれから愛でること。意識を内から外に拡大して、自分自身を至福の状態に保つこと。それをするには瞑想とかはとてもよい方法だと思うし、ノリにのればわたしは散歩しながらでも人と話しながらでもそういう状態になることができる。というか、その状態の自分が普通の状態になってくる。もちろんドラッグも道具も新興宗教も、何にも必要なく。
それから、”自分に必要なものは必要な時に必ず手に入る”、そんな自然の摂理さえ知っていれば自分の欲しいものは必ず手にすることができる。豊かさの定義さえ知っていれば、自分はいつだって豊かなのだ。



そうやって自分自身と対峙し始めると、なんて自分はいろんなことに執着しているのだろうかと気づいてくる。がんじがらめだ。そういうことからひとつひとつ自分を解き放していくとどうなるかというと、自分が楽になることはもちろん、不思議なことに周りの環境とか大切な人も楽な状態になっていくのだ。今の世界にはこういうことが必要なんじゃないかと思う。なんとなくこの半年くらいでそういうことを身体で感じ始めたのだ。

物事にはいろいろな段階があると思う。その段階を踏んで、次に進んでいく。この自分の感覚を使って、小さくてもいいから何か世界のためにできることは何なんだろうかと最近探し始めている。
どこか祈りのような、そんなもの。



それで、ヨガって一体なんなのって、気になりだして、今までストⅡのダルシム的身体の柔らかさが必要なものっていう勝手なイメージと、なんだか流儀がいろいろとありそうでややこしそうなイメージしかなかったのだけど、ヨガ哲学自体に興味がむくむく沸いて、インターネットでいろいろと情報を探してみた。そうするとなるほど、今まで自分が考えてきたことがスラスラと書き出されてあるのだ。
これは面白そうだといろいろ探しているうちに、ある1冊の本に辿り着いた。その本は、ある一人のヨギ(ヨガをする人)が自らの生涯を綴ったぶ厚い自伝。それが家に届いた日から、もう、1ページ目から面白くて、読みすすめればすすめるほど止められなくなってしまう。それでもまだ全部読みきれていない。


ちょうど1年前に親友があれほどうかされていたインド熱に、今ここになって、感染してしまったのだろうか?
それとも前世のスパイス屋のおっさんの血が騒いでるのだろうか?(←昔占い師みたいな人にそう言われたことがあるのだ。)
まあ何かしらつながっているのだろう。

物質ではどうしても満たすことができないもの、物でしか価値を計れない感性ではどうしても感じることができないもの、暴力的なものの対極にあること。人を安心させられるもの。そういうことがなんだかいちいち気になってきたのだ。



とかいいつつ、物質主義から抜け出すべく、大好きな洋服たちを処分しているのだけど、これが一向に進まない。こと洋服のことになるとなんでこんなにも意思が弱いのだろうかと自問自答を繰り返している。うー...