2015年5月26日火曜日

コントラスト、洗練、秘密の花園とピザ

積み重ねられたものがその人の顔にでるってよくいうけど、ほんとに全てが表に表れてしまうと思う。新鮮な食べ物を食べていない人の顔が分かるみたいに、文化的なことに刺激されていないようなこととか見た目でわかってしまったりする。いくら皺を人工的にのばしてみたって、そういうのは滲み出ていたりする。人は1年もあれば内面も外面も驚くほどいい感じに変わることができる。1ヶ月だって変わることがある。それなのに、5年も、それ以上もたっていても、何一つ変わっていないような人だっているという事実に、最近衝撃を受けた。見た目は本当に何ひとつ変わっていない。5歳以上も年を重ねているにもかかわらず。


外見が美しいことは素敵なことだと思う。ただし、年を重ねていることそれ自体を美しく感じさせないなんて。綿密に隠そうとして、そしてバレてるなんて。まあ人それぞれ好きにしたらいいけど、そういうのはわたしの趣味ではない。なんでバレるかって、放つオーラが苦しそうなのだ。苦しそうで苦しそうで横にいると自分まで本当に息苦しくなってしまった。この最近の2年ぐらいのあいだ、自分自身を受け入れて楽しんでケラケラ笑いながら周りの世界のこととか考えたりしてっていう人たちと一緒にいることが多かったから、大阪に帰ってきて途端、苦しそうな人とか常に怒りのスイッチが入っている人とか、そういう人が多いことに本当に衝撃を受けた。受けてから、落ち込んだ。自分が退歩してしまったような気がしたのだ。
自分の言葉が通じない。もしくはその人たちが話していることの焦点がわたしにはよくわからなかったりすることがある。オカルトな表現だけど、波動が自分と全然違う。これにはまいってしまった。恋人は今フランスなので肌を触れ合えないし、それに加えてこの街のごちゃごちゃした風景にも、まったく興味が湧かない高いビルたちにも、住民投票のために市長の声が録音された電話が家にかかってくることにも、まいってしまった。まいってしまって、できるだけ人と会うことを少し避けた。フランス語のテストも控えていたので、集中してきゅうっとひとりの時間を作っていた。


で、そうしてる中で、一体なんでわたしは今また退歩してしまうんだろうって、考えてみたら、結局それは退歩でもなんでもなかった。いかにも進歩している気で、自分を奢っていたのだ。ここ何年間か、自分の考えとかもう口に出さずとも伝わったり汲んだりしてくれるそういう人たちとそういう環境で、話すことも一から話さなくても百からでよかった。だから自分はいっぱしにそういうレベルだと奢っていたのだ。だけど、全然そういうことではなかった。わたしは周りに甘えていたのだ。そういう意識の高い空気の中から放りだされると、自分の考えをうまく説明することさえできない。それはわたしが一から百の間のことを理解していないのと同じことだ。それに、退歩なんて思ってしまうこと自体、ナンセンスだ。自分の中に不足感があったのだと思い当たった。もともとあったものが露呈しただけ、もしくは反映されただけのこと。


原因がわかれば回復のタイミングはすぐやってくるものだ。
そんなひとり悶々としていた時に、8年ぶりにこっちに住むブラジル人の友人から連絡が来て、久しぶりに会って、彼の楽しそうなオーラの変わりなさに、それから考えていることとか話が普通に通じたことにパッと救われた。8年ぶりのくせにパッと合ってパッと話が合うなんてイカす。彼は8年前からもずっと変わらず魂に沿うような芸術活動を続けてきていて、そういえば出会った時なんてわたしは彼の作品を全然理解していなかったし、理解しようともしていなかった。今はなぜ彼がそれを続けているのか、続けていられるのかの末端に少しは触れられるようになった気がする。
陰影は光が作り出すのだ。コントラストを持ってしか理解を深められない自分は、まだまだだなとひとりごちる。
それから、隠れ家みたいにイカした美味しいピッツァリアがあるよって連れていってもらった店の雰囲気が、とってもわたしの好みで、福岡でもそうだったけど、またわたしはここでもお気に入りのピッツァリアができてしまった。嬉しい。


それにしても、一体何がわたしの好みじゃないんだろうって、そういえばきちんと言葉にして考えたことがなかった。これは問題だ。自分の苦手なものもきちんと知っておいたほうがいい。考えてみるとたくさんあるけれど、目をそらしたくなってしまうようなわたしの苦手なことは”無知で悪趣味なセンス”だ。これはもう全く好みじゃない。自覚の無い厚化粧とか、むやみに大声を出すこととか、物質的な話しかしないこととか、ビジネスビジネスってやたらめったら口にすることとか、それでいてケチなこととか、服の色合せが悪いこととか、TVとかネットのまとめ記事だけ信じて話題にすることとか、さして意味もない意地悪とか、たくさんあるけど、そういうことを目の当たりにすると、どうも目をそらしてしまう。なんか気まずくなってそっとおいとましてしまう。
まあこういうこと考えてること自体が悪趣味なことなんだけどw


それから、考える。洗って練って何度も何度も、浸して干して何度も何度も、折って畳んで何度も何度も、丸めて破って何度も何度も、ぐちゃぐちゃにしてってそんなふうに。何のことかって、”洗練”のこと。
想像を超えるヨギも、想像を超える作品を作る芸術家も、うっとりするようなエレガントな女性も、”洗練”に通じる同じような何かを持っていると感じるのだ。考えてもわからないから放っておくんだけど、それでもずっと気になっている。いつかそういうものに触れることができるときがくるのだろうか?

なんてこういうとりとめもないことに身を浸していられるのも、家族の中でぬくぬくといい時間を過ごさせてもらっていることと、暇ってことだw というわけで、もう少しの間このとりとめのない研究を進めようと思う。
孤独な時間にしか見つけることができない、秘密の花園。贅沢なこと。





2015年5月7日木曜日

月とアーモンドの隙間

恋人を関空から見送ったあと、ひとり帰りの快速列車に乗っていると、車窓からアーモンドみたいな月が見えた。ただただぼおっとその月のかたちを目でなぞっていると、突如不思議な感覚に包まれた。時間とか空間が滲んできて、それは日が昇ったり沈んだりするみたいにさも当たり前かのようにして、現実ともうひとつの現実が重なったりずれたりする、その間をゆらゆら漂う感覚。またこの感覚だ。


そして、その快速電車の夜からわたしの身体の感覚が少し変わった。なんというか、身体のどこか一部分が、皮膚もなく生の身体がさらされているような、もしくは身体全体の表面の皮膚が一枚ぺろりと剥がれてしまったような感覚。特別嫌な感覚ではない。ただいろんな外からの刺激が皮一枚分自分の身体にダイレクトに届いてしまうのだ。刺激を受けて、すぐに反応が起こる。それは痛いとか熱いとか嬉しいとか悲しいとかとはまったく関係なく、反射的にボロボロと涙が出る、 そんな類の反応。涙がいつでも惜しみなく出るようにとセットされているような、そんな感じ。
空がくっきりと晴れた日差しの強い朝に自転車を漕ぐ。坂を登ったあと、平らな道が続き、ペダルを少しゆるめて街路樹の木陰に入る。生い茂る葉の影の下で景色の色のトーンと温度が少し下がる。サドルを握った自分の手もペダルを漕ぐ太腿も、街路樹の陰の中にまるごと包まれて身体が街路樹に一体になっているような錯覚に落ちる。その瞬間ふわりと風が吹き、 すっと身体を冷やす。そんな時、予期せずボロボロと涙が出る。そんな感じ。それは反応なので、あ!と思ったときにはもう遅い。きっとコントロールすることもできるんだろうけれど、まだこの身体の感覚に慣れていないので、まだうまくできない。思うようにスイッチのオン・オフで切り替えることができたら便利だ ろうなとは思うけれど。まあとくに今は、この反応をあまりコントロールしようとは思っていない。この不思議な身体の感覚を他人ごとのように楽しんでいる。


そういえば、最近改めていいなあと思ったフランス語の表現がある。
”Tu me manque.” 
直訳すると、「君(あなた)が私に欠けている」
英語では”I miss you.”と表現するらしい、つまり「私は君(あなた)がいなくて寂しい。」っていうことを表す言い回し。英語は”私”が主語になる。でもフランス語では相手”君”が主語になる。
「君の不在が私を寂しくさせる。」
綺麗な表現だなと思う。いちいちまどろっこしいと思う人もいるだろうけど(笑)、わたしはいいと思う。
というわけでちょいちょいノロケ。 先に彼がフランスへ帰国しているので、まあそういうふうにスカイプなんかでちちくりあっているわけだけれども、この期間はお互いにとってとても大事な繋ぎ目の時間なんだろうなと思う。とりあえず何ヶ月間か、彼がわたしに欠けている。
そういえば親友とも離れてしまい、彼女ともちちくりあっているので、わたしは今なんだかんだ大事な人たちとちちくりあうのに忙しいのだ。


でもこの空いた時間に、この場所で、この不思議な感覚の身体でいるのもまた特別なことなのだろう。今までわたしは周りに与えられ続けてきたけれど、もしかしたら自分も周りに何かを与えられる、少なくとも与えられたものを分けることができるように少しはなっているかもしれないなんて、考えだしている。周りの人がしているかたちと同じようにはどうしてもうまくできないのだけど、それはそれで自分なりでいいじゃないかと思えるようにもなってきた。
例えば特別なことは何もしないで家の中でいると、突如とてつもなく不安になったりする。自分だけ何も進んでいないように感じて、自分が何かから取り残されて いるような気分になる。そんなときすぐに外に飛び出すのもいいんだけど、一度自分に問うてみる。不安のもとは何か?本当にそれは不安になるべきものなの か?少しずつたぐり寄せていく。たいてい不安の正体はいつも同じ。最近そういうときには、焦らずに、大丈夫。全部よくなるようになっていると、ぐっと腹の下に温かい力をためられるようになってきた。年をとって楽観的になっているせいもあるかもしれないが、少しずつそういうことができるようになってきた。自分にこれから起こることを自分自身で選びとって受け入れる。それから日々の小さくてそれでいて見逃したらもったいないとろりとした甘露みたいなものを楽しむ。満ちたり欠けたりする自分を甘受する。体を愛して旅をする。わたしの何かの感覚を使って、そういう秘訣を少しずつ周りの人たちに分けていければいいなと思う。

月の香りを感じたり、黒色の官能を選んだり、揺れるスカートで現実を少し覆って、ひとりにやりと匂いに潜む秘密の記憶を楽しむ。アーモンドを少し齧る。言い訳の赤色を愛する指でぬぐってもらう。お湯の中に体を沈めて、耳までそっと入れる。目を閉じる。ろうそくの光が滲む水の色を味わう。揺れるリズムに身を委ねる。

満ちているように感じたり欠けているように感じたり、みなさん、愛しい日々の連続を♡