2015年7月23日木曜日

内側の色彩-フランスへ出発

ボロボロ目から涙が次から次へとこぼれて、どうすることもできなかった。それは号泣というのではない。すすり泣きでもない。ただ体が涙を発生させるような感じで、そこに自分のどんな感情が動いているのか分からなかった。なぜ泣いているのだろうかと、頭では冷静に疑問を抱いていたけれど、涙を止めようという気は起こらず、しばらくただただその状態に身を置いていた。

他人に起きた出来事を知って、涙を出す。
そこに物語、例えば感動秘話や悲劇などの心を震わせるストーリーがあるわけではなく、ただただその出来事、事実のみを知っただけというとき。嬉しい出来事なのか悲しい出来事なのか、よくわからず判断ができない。そしてその出来事は他人の人生のもので、自分には関係がない。それなのに、涙が出る。わたしには生まれて初めての経験だった。

それは、その人の”ため”に泣く、その人を思って泣く、という類のものではなかったし、自分がその人だったらと想像して泣くというものでもなかった。その出来事がわたしにとって悲しいわけでも嬉しいわけでも、ましてやそれに感動したわけでもなかった。もともとわたしは他人に干渉するのもされるのも面倒臭いし、他人の出来事にいちいち一喜一憂するほうではない。
やっと涙もおさまり、なんでわたしは泣いたのだろうかと考えてみた。限りなく客観的に観察しようと試みた。それができたのかどうかはわからないけれど、ひとつ思い当たった。それは、「その人自身がその出来事をどんな風に感じて、どんな風に受け止めているのか、どんな感情の中にいるのか、それが全く想像できない、わからない。」からだった。
わたしの身体が涙を流した理由はそれだった。


いくら考えても想像しようとしてもその人の感情はどういうものかわからないし、自分がそれでなぜ涙を流したのかもわからないので、生まれて初めて「考えるのを止める」ということを意識的に努めた。わたしは今まで、寝ることで考えを中断させることはあっても、「考えるのを止める」ということはしたことがなかったのだ。うまいやり方がわからないので、思考をフランスの生活の方向へ持っていく。
フランスへの出発はもう真近。


もともとけっこう単純なので、フランス生活のワクワク感に思考は持っていかれ、この方法は案外うまくいった。

フランスでは日本で食べられなかった野菜や果物が食べられること、野菜や果物は日本よりも安く買える、ってのがあるので、嬉しい。豆腐や納豆が食べられない(あるけど、まずい)のは多いに残念だけど、たくさん野菜や果物を食べられるということが楽しみでしょうがない。食い意地がはっているのだ。




どんどん思考をフランスでいっぱいにする。

作ってみたい料理やデザートなんか調べ出すと、楽しくてしょうがない。ブルーベリーやラズベリー、カシスなんかのベリー類もたくさんあるので、それを使ったデザートもふんだんに作れるし、ハーブやスパイスもたくさんあるので、ここはちょっと本格的に南インド料理の研究に力を入れてみようかなんて考えている。果物や野菜はそれだけで色とりどりで美味しいので、生のまま飾るだけでも美しいし、それだけで美味しい。



 
一方で、この3ヶ月間実家で母と祖母が作る和食の家庭料理を食べてきて、和食の美味しさや工夫なんかを毎日目の当たりにして、この日本文化もわたしは大切にしようと思い直した。わたしがベジタリアンで基本はかつお出しもとらないので、祖母と母は、わたしには味噌汁ではなくとろろ昆布のお吸い物を作ってくれたり、野菜でステーキもどきを作ってくれたり、ちらし寿司の寿司酢をブラウンシュガーで作ってくれたりと、いろいろと工夫を重ねてはほぼ毎日菜食の和食を作ってくれた。それで、家庭の和食の彩りも改めていいなと思った。 とろろ昆布のお吸い物なんて、見た目の色が笑うくらいどよんと暗い灰色のグラデーションだし(笑)、母が立てる抹茶の色には単色が持つ清さに背筋が伸びる。祖母の作るちらし寿司の色彩を食したあとで、アメリカだかのヴィーガンの若い人が作った、果物を具として巻いた、ピンクや青に色がついたお米のMAKI-ZUSHIの画像なんかを見て、わたしは祖母が作る和食の落ち着いた色彩感覚もきちんと忘れないでいよう、お米を青色にするのは止めようと心に決めた(笑)
コントラストを持ってしか、その大切さを再認識できない癖はまだまだ直らなさそうだ。




ずっと同じかたちで文化を継承していくのは並大抵のことではないけれど、だからと言って歴史があるいい文化をないがしろにしたり、消滅させたりするのはとても悲しい。ひとつひとつが持つ文化にも興味と敬意を持って、それと同時にいろいろミックスする楽しみをつき進めていけたらなと思う。

ここまで考えてきたあたりで、泣いたあとの身体の反応は落ち着きを取り戻してきた。


落ち着いたけれど、油断すると、またその人の感情を想像しようとしてしまうので、思考をもっともっと心地よい方へ加速させる。
そうそう、ワクワクといえば食べることについてもそうだけど、この3ヶ月間の大阪暮らしのせいなのか、久しぶりに洋服のコーディネートも、色で遊ぶ勘が戻ってきた。昔みたいな色キ○ガイにはならないけれど、色や柄を足したり引いたりする感覚はやっぱり楽しい。

派手すぎると写真をとられた↓
これでも昔より100倍マシだし、派手ではないと思うw



いよいよ日本を発つ。
というわけで、この出発ぎりぎりのところで、また自分の知らなかった身体の反応を知った。今までわたしは、ストーリーに感動したり悲しんだりしたとしても、どこかでいつも冷静で、他人の感情なんて心底想像しようとしたりしたことなんて、本当はおそらくなかった。
...今のわたしはそんなにも他人を理解したくなったのだろうか?

恋人に今回の一連の自分の身体の反応を話した。彼はわたしに言った。
「わからないなら、無理して想像しようとしなくていいよ。その人に素直に聞いてみたらいい。君にとってその人は関係のない他人ではなくて、君はその人を大切に思っているんだよ。だから少しだけ混乱しているんじゃないかな。」

そうだった、わたしはその人のことを大切に思っているんだった。
その人に聞いてみよう。その人がどんな感情の中にいようと、わたしはその人を応援できる自信はある。そうだった。



自分の内側を見つめようとすると、日々いろんなことを発見する。
外側に求めずとも、そこは光と色彩に溢れている。その織り出される彩りに感動し、涙がでることさえある。

これからフランスの生活の中で、ゆっくりでいいから、わたしの身体、心、感覚、感受性を通してできる何かを見つけたいと思う。まだまだ模索中で、かたちになるまで時間がかかるかもしれないけれど、それが愛につながる何かになればいいなと願う。

何かの終わりと豊かなサイクルが始まるのは同じ変化の中にある。光が重なって眩しすぎて目を閉じたくなるけど、それを闇のように錯覚してしまうけれど、その光の中にこわばった身体を解放すると、実はなんともいえない柔らかな何かが自分を包んでいる。

みなさんも、それぞれの色彩で彩られる愛しい日々の連続を♡
それでは今度はフランスから~
À bientôt!








2015年7月16日木曜日

チャイを飲む

最近、大阪に帰ってきて久しぶりに、高校の頃から仲がいい男友達ふたりとチャイをすすった。昔から変わらず、気楽にぐだぐだ喋りながら。


そういえば、昔から好きなことがある。それは、気のおけない男友達とチャイを飲むこと。
誰と飲んだって美味しいチャイはもちろん美味しいのだけど、なぜか個人的にチャイは気楽な男友達と飲むのが一番な気がするのだ。学生の頃アルバイトしていたチャイ屋で、一緒に働いていた男の友人が鍋から泡立たせながらグラスに注ぎ込んで、「はいよ~」なんていって、休憩中に出してくれたスパイス入りの濃いチャイがなんとも美味しかったこととか、ずーっとなんだかんだ仲のいい男友達とチャイを飲みながらとりとめもなく旅行やら音楽や絵やらの話をぐだぐだしていたこととか、そういう超個人的な思い入れ以外のなんでもなく根拠がないことなのだけど、そういうイメージがある。大阪には美味しいチャイを出すお店が昔から本当に多くて、だいたいそういう店のオーナーが男だったりすることも関係しているのかもしれない。
(いや、単に、チャイにはぐだぐだ話が合うだけのことかもしれない...なんてw)
これが恋人となると、出されたチャイよりもその時間の方が濃さを持つし、女友達とならチャイじゃなくてもお茶でもコーヒーでもそんなのどうでもいいわけで、話がはずむ。とにかく、色恋ざたが全くない男友達とチャイを飲むバランスがなんともいいのだ。


カルダモン、シナモン、ジンジャー、ナツメグ、クローブ、時々黒胡椒を挽いてみたり...
プレーンチャイもいいけれど、せっかくなら少し甘めのマサラチャイを。
インドのコルカタの方では、数本のサフランをパラパラと振りかける”サフランチャイ”というものがあるらしい。飲んでみたすぎる!!なんともいえない気品あふれる芳香なんじゃないかしらと、よし、フランスに引越ししたらこれをぜひ作ってみようなんて目論んでいる。気楽な男友達ができるのかどうかはこの際置いといて。


7月に入って会いたかった友達にも会えたり、やっと大阪の生活に慣れ始めたけれど、思えば出発まであと約10日。「お前あいかわらずあほやな~」なんて言われて笑いながら心地よさを感じるわたしは、ここにきて大阪人であることを少し嬉しく思えるようになったことに気づいた。
地元が好きだったり苦手になったり、やっぱりいいなと思ったり。
時にはゆったりチャイを楽しむ素敵な午後を♡






2015年7月2日木曜日

アンバランスないいわけ

6月末、フランス語のテストが終わった途端、雲が切れたみたいにパッと、わたしの世界の空は明るくなった(笑)自分でもなんて単純なのかと思うぐらい、見るもの聞くもの嗅ぐものすっかり曇りがなくなりすきっと爽やかに見えるきらめきの世界だ。

実は、大阪に帰ってきてからぐるぐるといろんなことを考えすぎて、梅雨の真っ只中、しかもフランス語のテストを控え、なんだか気持ちが暗ーく、暗ーく、辛気臭くなっていた。
物欲の塊みたいになってぬり壁みたいな顔になってしまっている人とか、精神世界に生きているように見えて、物事の本質を探究せずにただの無知で明るいだけの子供みたいな顔で暮らしている人とか、そういう風なところばっかりに目がいってしまって、こんなにも周りの世界は目を背けたくなることばかりなのかと、勝手に息苦しくなっていた。


でも、実はそういう事柄は全部わたしの中に存在する、もしくは存在していて、その事実から必死で目をそらそうとしていたのだ。そういう自分の愚かさを棚に上げて、自分の考えをさも雄弁に語ろうとしていた自分に気づいた。気づかない間に、善意に隠された欲望がむくむくと育っていたのだ。きゃおッ、なんて恥ずかしい!
生活にいい物を取り入れるために遠い外国のものばかりに高いお金を払うこととか、自分の本当に求めているものが何かわからないために見栄と物ばっかりで埋め尽くしていることとか、一緒に生活している人と価値観のすり合わせができないこととか、子供をTVやゲーム漬け、砂糖漬けにしていることとか、友情関係をビジネス関係にすり変えてしまっている人とか、スマホ中毒とか、公共の場に出没する変な現代アートとか、悲観的なものばかりに囲まれてもういやだ閉じこもりたい!なんて風に、自分がカラカラと干からびていきそうで、”辛気臭い人”にどっぷり浸かりきるぎりぎりのところで、パッと気づいた。

気づけたのは、無事テストが終わり脱力して、ふと、去年わたしはどんなことを考えていたのだろうかと気になって、自分がこのブログに書いていたちょうど1年前の6月の文章を読み返したことに あった。あれだけイヤだイヤだ、としつこく書いていた”○○臭い人”に、今、自分がなっていたことに気づいたのだ(笑) (詳細は”潜んだ欲望と、変な顔”へ)
ひゃー!ミイラ取りがミイラになるって、このことかしら!という風に。


で、この辛気臭さから脱却するためにとっさに本能からか救いを求めた先が、宗教でも、占いでもましてや電話相談でもなく(笑)、それはファッションの本の中にいる素敵な女性たちだった。エレガントにお洋服を着こなすマダムや、刺激的なコーディネートで楽しむ同じ世代くらいの女性たちの佇まいが、辛気臭くなってかちんこちんに固まっていたわたしの頭と心に柔らかく水をかけた。みるみるうちに癒されていった。過去恋人たちに何回もバイと疑われただけのことはある、わたしはやっぱり素敵な女性が好きなのだ、やっぱりもうメロメロ(笑)

で、同時に改めて気づいた。もう昔みたいに服を買い漁ったり、所有し過ぎたりすることにはまったく興味はないけど、洋服を着ることで一層引き立つある種の美しさとは何か、それがやっぱり気になって気になってしょうがないのだ。何を今さらと言われるに決まっているけど、わたしはやっぱりファッションが大好きで、どうしても素敵な女性たちに惹かれてしまう。物質に精神を埋め尽くされることを拒否しているくせに、消費社会のファッションの世界とどう関わっていくのか、なぜだかわからないけどおそらくこれはアンバランスで矛盾だらけのわたしのこれからの課題になりそうな気がする。
癒されるはずが、別の乾きを求める始まりになってしまったw


とにかく、”○○臭い”からの脱却に、何が必要だったって、自分のアンバランスさを再認識することだったと思う。どれだけ自分はバランスがいいなんて奢っているか、それに気づいたら、なんともいえない恥ずかしさで穴にもぐりたくなる(笑)わたしはやっぱりまだまだ矛盾だらけで頭でっかちでアンバランスだ。願わくばバランスのよい感じになりたいけれど、なかなかそう簡単に矯正はできない。ので、気長に行くしかない。

でも、こうも思う。このアンバランスさは、見方によっては自分の何か大切なものにつながっているのではないかと。アンバランスさによってバランスをとっている、なんともややこしくて且つ精妙なものなんじゃないのかと。複雑さは女の人の魅力だよと恋人がなぐさめてくれたことがあったけど、アンバランスさも個性になりえるのかもしれない。自己表現なんてどこまでもナルシストで自己中心的な行為なのに、それが自分を支えている。わたしは、バラバラと気になるものや好きなものが多すぎて、いっそ全部飲み込んでしまいたい衝動にいつもかられている(笑)
さっそく、結婚前にこれだけは再度伝えておかなければいけないと、恋人にスカイプで「というわけで、やっぱりわたしは洋服が大好きで、それから矛盾を抱えていてアンバランスなのだ」ということを堂々と宣言したわけだが、彼は苦笑して、「何をいまさら。今は矛盾に思うかもしれないけど、あとあと必ず君の中でつながっていくよ。まあ、その宣言は昔から何度も聞いているけどね」と、同じ話を何度も繰り返す老婆扱いされた。


曇りが晴れたついでに、そのファッションの本たちをパラパラと読んでいて、なぜかすとんと気づいたことがある。それは、「何かひとつの方法でしか物事の本質を追求できないということはない。」ということ。これはわたしの恋人が何度もわたしに言っていることだけど、この意味がようやく腑におちた。例えば悟りを開く唯一の道は、ヨガをすることだけでもないし、カトリック信者として一生をおくることだけではない。すぐにわたしたちは、自分の道だけが正しいと思ってしまいがちだけど、何を持って本質を追求するか、それは人それぞれに道がある。


 
とういうわけで、洋服の色合わせなんて考えているとやっぱりなんともワクワクしてしまう。文章を書いているとワクワクが止まらなくなる。辛気臭さを払拭するには、やっぱりワクワクすることが必要なのだ。瞑想しながらこのワクワクに引っ張られてはムヒヒとなってしまう。
そんなことでひとりムニムニしていたら、美しさについて、ふっと浮かびあがったことがある。
美しさとは、これ見よがしに表現されたものにではなく、細胞に、内面に息づく気配こそに宿るのではないか?


どうも最近自分が辛気臭くなっているなって感じてる人がいれば、もちろん梅雨の季節のせいにした上で、自分のワクワクのもとをもう一度探してみることをおすすめしたい。ひと足先に梅雨明けできるはず!
アンバランスでも矛盾だらけでもなんでも、愛らしい素敵な日々を♡