2015年9月17日木曜日

目の前にあるもの

わたしの目の前には扉があった。
深い緑のペンキ、朽ちた木の気配。
時間の経過が放つすえた匂い。


南仏の日差しはどんな時間でも正面から照りつける。
ついうっかりサングラスを忘れると、その日一日中日陰を探して歩くことになる。

アパルトマンの建物には共同の小さな中庭がある。
誰がどのような権利で管理をしているのか知らないが、住民が思い思いに持って来た観葉植物が中庭のふちを囲い、真ん中には小さな木が植えられてあり、その脇には椅子とテーブルが置かれている。


誰の趣味か知らないが、この建物のあちらこちらに、海辺で拾ってきたであろう手のひらサイズの色とりどりの石が転がっている。
中庭の木を囲むようにその石が綺麗に並べられているし、共同のごみ捨て場の角にも幾つか並べられている。

このアパルトマンに越して来た日、雨戸を開け部屋から中庭をのぞこうと窓を開けた時にも、窓のふちに並べられた石たちと目が合った。
 

建物には直接陽が入らないので、真夏でもひんやりとしている。薄暗い共同の廊下をひたひたと歩き、正面玄関の思い扉を開けると、突然強い光が目を射す。
越してきて二週間、ここの暮らしにも少しずつ慣れてきている。
ひたひたと廊下を歩きながら鞄をごそごそ。
玄関の扉を開ける前にサングラスをかける。 

今日もわたしの頭上には突き抜ける濃い青があった。

カルダモン、クミン、シナモン、ジンジャー、スパイスで始める朝


フランスで生活を初めて2ヶ月。新しいアパルトマンへ引っ越して2週間。
新しい食べ物や面白い場所に出会って嬉しかったり、
自分のフランス語のレベルにため息をついたり、考えたり感じたりと
体はフル回転でぐったりする時もあるけれど、この街の美しさの匂いと空の青を栄養に、深く呼吸をし始めました。

親友が夢に出て来たので、その朝の朝食はネイティブアメリカン風 

ニース、素敵な街です。
愛しい日々の連続を♡






2015年9月9日水曜日

美しさに宿る力

フランスには必ず公共の場所に芸術作品が置かれている。
これは国の取り組みで、芸術家たちを支援するための政策のひとつなのだそうだ。公共の空間に設置される芸術作品のことを、パブリックアートと呼ばれている。「公共的な芸術」。最近気になることがあるので、ちょっとパブリックアートについて調べてみた。

wikipediaには、
”パブリックアートとは、設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。”と説明されている。

ニース市外の中心に位置するPlace Masséna(マセナ広場)
コートダジュールの空の色と、ニース独特のイタリア建築の建物の色を
開けた空間の中で体感できる場所。

wikipediaの説明をどこまで正しい定義として扱うかということももちろん考えなければいけないけれど、”設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう”というところは市民にとって重要なことではないだろうか。

わたしはここフランスで、公共空間に設置されている芸術作品に対して個人的に疑問を持っている。はて、この芸術作品たちはこの自然景観と調和しているのだろうか?「空間の魅力を高める役割」からかけ離れているのではないか?と疑問を感じるのだ。

そのマセナ広場になんか変なものが。
街灯かと思ってよく見ると、

彫刻家ジャウマ・プレンサ(Jaume Plensa)によるパブリックアート
全部で七体

20世紀後半から、芸術は美しさを最大の価値とはしていないのは明らかだ。現代アートは、美しさではなくある種のショック、刺激を鑑賞者に与えるものが多い。あるいは作品を前にして、「これは一体何なのか?」と疑問を鑑賞者に彷彿させるもの。大まかな定義では、現代社会の情勢や問題を反映し、美術史や社会への批評性を感じさせる作品のことを現代アートと呼ぶらしい。現代アートを全面的に否定するつもりはないが、パブリックアートにおいて最近いくつもの問いが頭をめぐるのだ。

長い歴史の中で芸術とは、人間の創造を超えた美しさを表現する、そしてそこに宿る精霊のようなものを伝え残すものではなかっただろうか?
なぜ”美しさ”から距離を置く必要があるのだろうか?たとえ”美しさ”に価値は置かずとも、反対の”醜さ”を氾濫させてるのではないだろうか?

夜になるともっと酷い。
街灯の明かりを無視して、ディズニーランド化

美しさや醜さはもちろん個人的な感情、主観に因ってくるので、普遍的な定義はないのだし、両者はそれぞれ個人的主観、社会の構造などで変動することもある...

なんてこむずかしいことは美学やら芸術学やらの専門家の何百枚の論文にまかせるとして、フランスで目にするパブリックアートに本当にいつもがっかりさせられているので、ここで鬱憤をはらしたいだけのことw

フランスでは歴史的なモニュメントや広場、場所で、多く、”醜い”現代アートが設置されているのを目にする。”醜い”というのがわたし個人の感情からくるものなのであれば、言い直す。その場所に居る人に何かしらのショックを与えるもの、設置されている周りの環境から浮き出ている存在のもの。
これらを目にする度、これはもともとの自然景観の美しさを破壊しているのでは?と感じるのだ。もともとそこに在るだけで美しい、例えば何百年も存在する歴史的な建物や広場の前に、ショックを与える奇異な現代アートは必要なんだろうか?それを設置させることで、人々が美に対する考えを知覚し直すための挑戦?そんなこと、少なくともわたしは望んでいないし、もしそうならそんな挑戦個人的に勝手にやってくれと思うのだ。こんな作品、この場所に無い方が景観は美しいと感じるのはわたしだけだろうか? わたしたちの趣味嗜好は十人十色、万別なので、特殊なものや奇異なものは個人の所有空間に設置する、もしくは個人が携帯するだけではだめなのだろうか?

わたしが今のところ見た中で一番ひどいと思うパブリックアートは、マルセイユにある。
道路のロータリーに突如出現する、セザール(Cesar)による巨大な親指

とはいえ、わたしも学生の頃、訳もわからず現代アートかっくいい!なんて思っていたし、あの頃なら、遊びがあっていいんじゃない?なんて公共の場所に出現する変なものもアートだわなんて思っていたに違いない。
年をとっただけなのかもしれない。
それでも最近、物質で溢れる現代社会で、昔からあるさまざまな価値観は徐々に、正反対の意味することを示していっているのではないかと感じるのだ。美しさの価値もそうだと思う。よく昔から、人は内面の美しさが外見に現れると言うけれど、わたしは、美しさには何かスピリチュアルな力があるのではないかと感じている。その美しさの代わりに反対の醜さへ価値を置くことで、そこに宿る力が減少する。人々を散漫させるには、美しさから遠ざけ、醜さや汚さの中に放り込んだら、都合がよさそうだ。偉大なパブリックアートの前を通る時、わたしの頭にはいつも「裸の王様」の寓話がよぎる。

美しさに宿る力を取り戻したいなと感じている。

変な写真ばっかり載せて好きな写真を載せられなかったので、フラストレーションがたまるw ので、最後に全然関係ないけれど、家から5歩歩いたところにある内装が超好みのイタリアンレストランの写真と、最近ハマりまくっているビオスーパーのラビオリ。リコッタとほうれん草だとか、セップとチーズだとか最高の組み合わせがたくさんあり。手抜きが癖になってしまう!




美しさは特別なことをしなくても、多分いつもすぐ目の前に広がっている。
愛しい日々の連続を♡




2015年9月3日木曜日

教会の裏、色の夢


新しいアパルトマンに引っ越してきた。
一筋縄ではいかず、少々騒動ありの引っ越しを終え、ここ何日か朝から掃除や買い出しなど毎日パタパタ動く日々を送っていた。
少し片付けも落ち着いてきたので、ちょっと気分転換に外に散歩に出てみた。

  
新しい土地で、新しい生活、知らない隣人の人たちとのやり取り、近所の散策、心躍るようなことがあったり、少し落ち込んで不安になったり。まだまだ日常の生活することにおいて、感情で左右されるなあなんて、気づくことも多い。ちょっと気分が落ち込んだときなんかは、バスに乗ったり、カフェに行ったりして周りを見渡してみる。


一歩街に出ると、本当にいろんな肌の色、髪の色、目の色、体系、服装、話し方、歩き方...etc、色々な人がいることに気づく。女性も、特に髪型にいたっては本当に様々。流行なんてものはこの国には存在しないのではないかとさえ感じる。
日本のことを悪く言いたいわけでは決してないけれど、日本では髪を茶色に染めて、モテ雑誌の中の写真と同じようなメイクをして、爪に絵を描いて、ヒラヒラと可愛いファッショに身を包む女性たちを見ることが多かった。個人的に、そういう女性はみんな一緒に見えるなあなんて思っていた。この国では年を重ねた女性も、ベリーショートからロングヘアまで様々で、年をとっているからおばさんらしく短くしなければならないなんて、そういうのはない(笑)
なので女好きのわたしとしては、街を歩いて女性を観察するだけでもほんとに楽しい、うはうは。



この国で改めて生活をし始め、他人との比較ほど意味のないものはないのではないかという思いが強くなってきた。内面はもちろん知性や生活スタイル、外見すべてにおいて、他人と比較するより自分の個性をのばす方がよっぽど効率的で、生産的で、それから楽しい。もちろん奇抜なものがいいというのではない。ひとりだけ目立てばいいとかそういうものも趣味が悪いように感じる。
調和の感覚も大切にしながら、個性をのばす。簡単にすぐにできることではないかもしれないけれど、それでも時間をかけてでもやるべきことなんじゃないかと思う。自分を楽しむこと。



日本から、たくさんの本を荷物に詰めて来た。まだ整理ができていないので、適当にパッと思いついたあるヨギが書いた一冊の本を手にとって、最近読み始めた。その中に、ハッとリンクする文章があった。

比較を落としなさい。あなたは唯一無二の存在なのだ。
...
あなたの唯一無二の個性を尊重しなさい。そして比較を落としなさい。
...
あなたが自分の中の何かを否定するとき、あなたは、それを他人に投影する。”


バスや、カフェや公園のベンチなんかで、外見が様々な人たちがみんなおおいになんだかんだぺちゃくちゃ話をしているのを見て、なんか髪型も服もさまざま、色とりどりの鳥みたいだなと思う。それで、よし、わたしはわたしの個性を楽しもうと勝手に思うのだ。


このアパルトマンは教会の真裏にある。
毎時間ゴーンゴーンと鐘が鳴り響く。
色で溢れている夢をみた。鐘の音が心地よく目が覚める。

みなさんも、色とりどりの素敵な日々を♡