2016年4月24日日曜日

なんでもない日に

この一連の流れを、体の中の温かい集まりを、あなたにどう伝えようか。

愛情を伝えることはまったく禁止されていない。言葉で態度で体の温度で愛情を伝える。想像する。相手が喜ぶ顔を。
誕生日もクリスマスもバレンタインもこのなんでもない日の個性に比べると、とたんに画一的になる。


この一連の流れを、体の中の温かい集まりを、わたしはどうやって伝えたらいいのか。
後ろから羽交い締めにしようか。足首にまとわりついてみようか。
カードに文字をしたためようか。
いや、やっぱり...口から始める何かにしようか。


つぼみは花を咲かせ、時が去り花は枯れる。
そしてその後に残るもの。日常に溶け込み息づかせるもの。

その言葉で、態度で、体で、その表現で、
なんでもない日に色がつく。なんでもない日の香りに気づく。
なんでもない日に愛を。

愛しい日々の連続を♡






2016年4月23日土曜日

Une journée à Aix en Provence

Un jour de beau temps, j'ai flâner dans les petites rues à Aix en Provence.




エクスの街は壁がベージュ色の建物が多く、落ち着いて、またニースの街並みとは別の印象。至る所に噴水があるのもこの街の素敵な特色のひとつ。




市街から車で10分ほど走らせたところに、川が流れ、緑が広がり小さな森のような素敵な場所が。絶好のピクニック日和。









実をいうと、Cyrilとふたりして、海より川派。海岸より森林好き。ニースには悪いけれどw
街から少し足を伸ばすだけで深い自然に触れられるのは、この国の本当にいいところ。

愛しい日々の連続を♡ 



2016年4月21日木曜日

愛すべき体の従順な奴隷、無知の罪

ジョギングをして、ヨガをひと通り終えた朝、何を食べようかでわたしの頭の中はいっぱいになる。せっかく体も心もすっきりしたというのに、これじゃあ生理的欲求の虜だ。まあそれも悪くはない。愛すべき体の従順な奴隷であるわたしは、さっと台所に立つ。
朝から台所に立つなんて。物心ついてから朝食を食べるのが苦手でずっと朝食は食べない主義だったわたしには考えられなかった。とはいっても、朝、食べたいのは果物だ。特に調理の必要はない。まだ朝からパンだのクッキーだのをがっつけるほどには朝食は食べられない。(ましてやご飯に味噌汁なんて!)


カシスを混ぜ込んだ豆乳ヨーグルトに、思いついた果物をささっと洗って、アーモンドを何粒か、胡桃もひとつかみ。へーゼルナッツも何粒か。ヘーゼルナッツはフランス語で”noisette ノワゼット”という。この単語の語感がなぜか好きで、ノワゼットをついつい買ってしまう。亜麻の種とひまわりの種もひとつかみ、かぼちゃの種の緑色も入れよう。思いついたものをとにかく入れる。今日は特別にココナッツクリームで作ったVegan生クリームを苺に添えてみる。ココナッツ、ビーポレン、カカオニブ、ざくろ、ドライクランベリー、シナモンに、クミンも少々、バラバラパラパラ。最近はボウルに盛らずに、そのままお皿に描くように置くのが気に入っている。最近のテーマは、なんとなくSexyなひと皿になるように(笑)

で、ひと口目、スプーンで端からぐーっと全部を掬いあげるのがなんとも楽しい。あとは思いのまま混ぜたり潰したりして、食べる。
市場には苺、ラズベリー、ブルーベリー、黒すぐりたちが体中キラキラの粒々の目だらけにしてらんらんと並んでいる。春だ。

<Veganココナッツ生クリームの作り方>
1. 漂白剤・乳化剤・酸化防止剤などの添加物が使われていないココナッツミルク缶を用意する。できるだけ脂肪分の高いものがいい。

2. 缶のまま冷蔵庫に数時間入れておく。(ココナッツミルクを液体と脂肪分に分離させるため。)

3. 凝固しているクリーム部分(脂肪分)を取り出す。

4. メープルシロップを自分の好きな甘さになるまで調整しながら入れる。バニラエッセンスも1、2滴。

5. 泡立て器で混ぜる。

Voilà 出来上がり!舐めだしたら美味しくて止まらないので要注意!


4/15、熊本大震災の渦中、参議院で”国民発言禁止法”がするりと可決したようだ。
「サイバーセキュリティー基本法 および情報処理の促進に関する法律の一部を改正する擁立案」、つまり「インターネット監視法」。
「刑事訴訟法等の一部を改正する法律」、つまり、「自由盗聴法」。
「中小企業の新たな事業活動の促進に関する法律の一部を改正する法律案」、つまり、「中小企業監視法」。
つまりこれはすべてを監視下に置き、言論の自由を奪うことを目的とした法案たち。
想像していた通り。


わたしたちは願わずしもひとりひとりが密告者のような位置になる。個人のSNSやメールへ、警察、つまりは政府が自由にログインできるのだ。 別に見られたって平気、だって、料理の写真しかアップしないし、自分の子供の写真しかアップしないし、自分の活動やお店の宣伝しかしないし、なんてわたしたちは無邪気に言う。もちろん政府は個人の食卓の写真や個人レベルの宣伝なんかに興味はないかもしれない。(反対に、小さな子供の写真はかなり興味あり。だから危険。)でも、そういう簡単な問題ではないのだ。例えばわたしが何か政府に抗議運動をするとする。それを政府は面白くないと感じる。そうするとどうするか。わたしと関係するすべての人のSNSなどを探る。思想、行動、場所。わたしはどこにも隠れることができない。自分のSNSがそういうことに加担するということ。家族や友達のすべてを露わにする。個人のエゴにとりつくのは、個人だけではない。

無邪気さや無関心さ、そして無知からわたしたちは目覚めなければならないと思う。世界の出来事はすべてつながっている。起きている出来事に国境なんてない。つながりを知らないのは、無邪気で無知なわたしたちなのだ。

愛しい日々の連続を。


2016年4月17日日曜日

ぐうのエネルギー、祈り

あれだけ食欲がなかったのに、お腹がグウと鳴る音で目が覚める。お腹が空いた。キウイが食べたい。蕎麦が食べたい。胡桃が食べたい。ぐう。味噌汁が飲みたい。クロワッサンにかぶりつきたい。ぐうう。食べたいものはその時によって違う。そんな時体は随分とお喋りなことに気づく。

元気が無い時や体調が悪い時は食べたくなければ無理して食べなくてもいい。食べたくなれば自然と体が欲する。子供の頃、風邪をひいたら「栄養のあるものを食べて寝ていなさい。」と大人たちから言われていたが、東洋医学の考えでは、風邪の時は食事を断つ、もしくは少量に控える方がいいと言われている。食事を断つことで、病気のもとである老廃物、酸毒物を、 これ以上体内でつくらせまいとする。体内の老廃物を燃やし、胃腸を休ませ、消化活動に使われるエネルギーを病気治癒に向ける。なるほど、これを実践してみると、治りが早い。


食べたくなれば無理して食べなくていい。だらだらしたければ思いっきりだらだらしたらいい。体の反応に抵抗しないようにすると、なんだか途端に楽になる。体はすでにいろんなことを知っている。

<人参とセロリがモリモリ食べられるサラダ>
人参 1本 (丸くスライスして1/4の形に切る)
セロリ 1/2本 (みじん切り)
オレンジ 1/2個 (小さくカット)
ミニトマト 5,6個 (1/4にカット)
好きなナッツ(アーモンド、胡桃、ヘーゼルナッツ等)
好きな種(かぼちゃ、ひまわり、亜麻等)
クミンパウダー 好きなだけ
シナモン 少々
塩 しっかりめに少々
胡椒 少々

(ドレッシング)
オリーブオイル 大さじ1
バルサミコ酢 大さじ1
醤油 小さじ1

<お好みで追加>(わたしのお好み)
ドライクランベリー
ザクロ

全部の材料をワシワシ混ぜて、出来上がり。



熊本で大きな地震が起こった。福岡で濃密な時期を過ごしたわたしにとっては九州は第二の故郷。心がぶんぶん揺さぶられる。
原発は「今のところ問題なく運転している。停止する予定はなし。」と発表。わたしたちは何にも学んでいないようだ。
原発をすべて止めても、今と変わらず電気を使用して生活することができることをわたしたちはすでに知っているというのに。


改めて祈りのことを考えた。

ニーバーの祈り(The serenity Prayer)
神よ、
変えることができないことについては平穏にそれを受け入れる恵を。
変えるべきことについてはそれを変えてゆく勇気を。
そして、その二つを見分ける知恵を与えたまえ。

終わってしまうの?
Non, 終わりはしないよ。

愛しい日々の連続を。

2016年4月13日水曜日

下品さの定義

あることがきっかけで、ちょっと”下品さ”について考えてみた。
思ってみれば、わたしがこの世でできるだけ遠ざかりたいなあと思っているもののひとつ、それは”下品なこと”かもしれない。
でも、下品と一言でいっても本当にいろんなことがあるわけで、ちょっとインターネットで探ってみても、いろんな人が下品さについて意見を持っている。


下品さっていったい何か。例えば辞書ではこんな風に記されている。
「品格・品性が劣ること。卑しいこと。またはそのさま。」(デジタル大辞泉)

考えてみると、まず動物には下品さというものは存在しない。
ということはまず、人間にのみ存在すること。

食事作法が悪い人は、下品だと思うことはおそらく一般的だろう。物がまだ口に入っているのに大口開けて話したり笑ったりしたりする人なんかは、世界共通でけっこう一般的に下品と言われることが多いように思う。ただし、国によって食事作法が違うので、下品さはその社会の決まりごとにも関係している。
あと他の人の意見では、お金の使い方とかお金についての話し方、人と知り合うことをすべてビジネスの拡張と考えている、露出が高すぎる服装、他人のプライベートに踏み込みたがる、噂したがる、裏でこそこそと汚いことをする、とかそういうことが一般的に下品なことと言われているようだ。自分の損得しか考えずそれを口に出すことも下品さのひとつだろうか。(地元を悪く言うつもりはないけれど、大阪のおばちゃん(のイメージ)の話し方や振る舞い、服装が下品だと思うことは、おそらく当事者(もしくは大阪人?)以外の共通の認識だろうw)


じゃあわたし個人的にはどうかというと、会話の中での言葉の使い方なんかに下品さを感じてしまうことが多い。中学生の頃(その頃はまだTVを見ていた)、「めちゃめちゃイケてる」というTV番組が流行りだし、瞬く間に「イケてる」という言葉が世間で飛び回った。わたしはこの「イケてる」という言葉がどうしても肌に合わず聞くたびに鳥肌を立てていた。なんて嫌な言葉使いだろうと中学生ながら思っていた。今はもう免疫ができ、「イケてる」と聞いてもなんの体の反応もなくなったが、実は今でもわたしはこの言葉が使えない。「超」とか「ヤバイ」とかも下品な言葉使いだし、流行りだした時の自分の拒否反応も覚えているが、 もう慣れすぎてしまいわたしも時々使ってしまう。そして下品だと思う。
あとは、いい大人なのに幼稚な言葉使いをしている人とか、幼稚な振る舞いが目立つ人なんかは、個人的に「おー、あの人下品だな」と思ってしまう。


礼儀知らずで無作法なことは下品だと言われることは多いが、ただ、これのみが下品さだとは言い切れない。なぜなら、下品さというのは、一言も言葉を発せずとも、何も食べなくても、ただそこに居るだけの立ち振る舞いや服装からも匂うからだ。他人を見る時の視線、笑い方なんかで下品だという判断をくだされることも多い。
おそらく人それぞれが持つ内側にある汚いもの、もしくはエゴを他人や世間に対して見えるように表に出すこと(もしくは隠しれきれないこと)が下品さのキーワードかもしれない。
時と場所、他人の領域なんかを考えず自分のことだけを考えて表に出すことも下品さのひとつ。服装なんかが下品だと言われるのは、これが大きく関係しているだろう。時と場所を考えない奇抜な服装や高い露出は、本人は気づいていないのかもしれないが他人としては、できるだけ見たくないもののひとつで、バシバシその領域を超えてくる。
「わたしは、わたしが、わたしの」が自分の領域を超えて他人のそれに踏み込んでしまっていること。
わたしもSNSを利用しているけれど、そういった意味ではSNSも下品さのひとつと言えるのかもしれない。

他人の領域(物質的にも精神的にも)を知るということは、知性も関係するだろうから、そういう意味で下品さとは知性にも関係するのだろうと考える。
ちなみに、アルコールを多量に摂取している人は普段はそうでもないのに、下品な言動や行動が多くなることが多いのは、アルコールが知性を奪ってしまうからだろうか。わたしもワインが好きで週1、2回飲むけれど、昔は今では考えられないくらいもっと頻繁にもっとたくさんの量を飲んでいた。その時代にわたしがしていたこと、言っていたことと言ったら...!思い返してみるとおおいにわたしは下品だったなあと思うのだw


下品さというものは何か。
なかなか難しいのだけれど、はっきりと言えることはひとつ。下品さというものは、その人以外の周りは感じているけれど、当事者は気づいていないということ。そして、それを本人に伝えるのはよっぽど近しい仲であってもむずかしいということ。

わたしにも下品なところがまだまだあるな、なんてこれを書いていて思い巡らし、改めて反省する。
どんどんどんどん、世界には下品さが蔓延しているように感じるのはわたしだけだろうか。


愛しい日々の連続を♡



2016年4月7日木曜日

SNSで消費するもの

とても面白い人がいる。彼は家を持たず生活に必要なものは車に積み込み、様々な土地を移動しながら生活している。不必要なものを持たない代わりに、膨大な知識と知恵を蓄えている。政治のこと、経済のこと、文学、言語の意味、宗教、芸術、宇宙のこと、様々な国の歴史、ヨガのこと、ドパリュドゥーについて、etc, etc, 話せば話すほど湧き出る泉かと思うほどいろんなことが出てくる。インターネットのまとめ記事やSNSで流れている情報、人から又聞きしただけの情報で知識を構成するのとはまったく次元が違う。読んで調べて疑ってまた調べて疑って時々実践してって、おそらくそれの数珠つなぎで蓄積されているのだろう、大きな木のような知識なのだ。そしてそれをユーモアたっぷりに話すのでまったく飽きない。フランス語なので全部は到底把握しきれていないがそれでも飽きない。そしてその人はある武術を身につけているので、体のこともよく知っている。人の気の流れを整えることもできる。


ところで、SNSで鬱になる人が増えているそうだ。調べてみると様々な研究機関が数年前から研究結果を発表しているが、精神衛生上問題のある人がSNSによって鬱になるというよりは、SNSの持つ特質が人を鬱にならせやすいそうで、誰もに大きな危険性があるということ。研究によって、SNSの利用によって人がもっとも感じる感情は「妬み」であるということが分かったらしい。

長時間使えば使う程、絶望感を感じ、強い孤独感に苛まれ、判断力が低下し、怠け者になり、妬みの感情が爆発し、人生に不満を感じ、結果的に鬱症状が出やすくなりるのだという。ただ閲覧するだけの人よりも頻繁に投稿する人のほうが鬱になる傾向がでやすいらしい。カナダのある心理学者の論文によると、「毎日SNSを2時間以上使っている若者は、心理的苦痛を感じたり自殺したいと思う割合が高い」との調査結果が得られたらしい。ただし、「SNSと精神衛生の関係性は非常に複雑で、『SNSを使っているから精神衛生に問題が起こる』と単純に説明することはできない」とも言っている。


わたしは気楽な性格なのか、例えばFacebookを利用して見て特に嫉妬を感じたことはない。もしかしたら特に重きを置いて頻繁に利用していないからかもしれない。わたしはこのブログの更新を投稿しているのに使うか、あとはたま〜に個人的な実験で写真を載せたりするぐらいで、8年前利用し初めた頃に比べると使い方も全く違うし、あまり興味がなくなっている。だからと行って友達や知り合いの投稿にへ〜、そんなことしてるんだ!なんて興味を持つこともあるし、日本から離れている分、自分の大好きな友達の投稿で近況を知れて嬉しくなることもある。
ただ、わたしは構図や色構成が素敵な写真や独特の雰囲気がある写真を見ることが昔から好きなので、そういう意味でFacebookに投稿されている記事や写真が趣味ではないものが多い。
で、なんとなくinstagramで投稿されている写真を閲覧するようになった。もちろん好きな写真ばかりではないけれど、自分の好きな国や行ったことのない綺麗な場所の写真たちを見るとうっとりする。ベジタリアンなので世界中の国から投稿されている菜食料理のレシピを知るのが楽しくて、自分も写真を撮ることも料理を作るのも好きなので、自由気ままに投稿できるという気軽さであまり深く考えずに楽しんでいた。


ただ...実を言うと妬みや鬱は知らなかったとしても、SNSの他の危険性は随分と前から知っていた。(例えば小さい子供の写真はかなり危険なので顔写真は載せない方がいい、とか、本当に伝えたいことはSNSでは伝えない方がいい、とか。)これらの危険性に関してはいろいろな情報が絡みあっていて紐解いてきちんと伝えないといけないので、今ここでは書かないが、それらを知りながらも適当に利用していた。いい情報をみんなに拡散したいという気持ちもあったが、本当に伝えないといけないことはSNSでは伝わらないことを本当はどこかで知っていた。SNSに投稿した写真は上から下へスクロールされ、どんどん消費される。花の美しさも精神世界も体の仕組みも人との繋がりもすべてビジネスの広告になり消費されていく。自分の気持ちを煩(わずら)わす人の投稿にはフィルターをかけてしまえばいい。簡単に排除ができる。消費されるのはデータだけではないようだ。

少し古いものではあるが面白い記事を見つけた。(http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/177178/177178abe.pdf 想像する以上に難しい言葉は使われていないし、分かりやすい文章なのでもし時間があれば読んでみたら面白いと思う。)


”ユーザーである消費者の「自己実現」の欲求は,見方を変えれば「ナルシシズム」への欲求とも言うことができる。SNSに限らず,インターネット環境が実現した表現の場は,ユーザーに対して,「自己実現」の欲求の充足を与えるとともに,「ナルシシズム」の欲求の充足も与える。”
そしてわたし的に衝撃的だったのが、中盤あたり(130-132P)に出てくる文章、
”ユーザーは,開かれたコミュニケーションをするという快楽を消費しようとすると同時に,(互いに)広く知られているという「プチ有名人」とでも言うべき存在になろうとする。”という一節。
”プチ有名人”!!きゃあ!言い得て妙!意地悪でそして的を得た、なんて貧乏臭い表現なんだろう!!とおののいてしまった。この言葉が持つ独特の匂いに数秒間思考が停止してしまい(笑)、そして我に返り自分を大いに省みて、そして思う。「プチ有名人」は...ちょっと、いやだ。
マズローも彼の理論でいう”低いレベルの尊敬欲求”(他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たす欲求)にとどまり続けることは危険だと言っている。SNSのセルフィーはそのもっともの例だ。このブログだってそのひとつにすぎない。わたしの大きなエゴだ。


で、ハタと気がついた。SNSで鬱になる人が増えているということは、知らないうちにわたしもそこに加担しているのか!ということ。わたしのSNSのアカウントは特にフォロワーが多いわけではないしわたしが投稿した写真で妬みを買うということも特にないかもしれないけれど、それでもそこの一片になり得るかもしれない。

だからと言って特にアカウントを削除したり利用を完全に止めたりということもしないだろう。うっとり妄想時間は昔から大切にしているので、素敵な写真を見たくなれば見るし、友達の投稿の閲覧もするし、時々投稿だってするだろう。でも知らないうちに何かに加担して、わたしの大切にしている部分を持っていかれないようにしようと思う。
ああ...いつだってエゴは取り付くことを探しているんだなと思う。


くだんのその面白い人といろんな話をする。「いろいろな人が僕に勝手なイメージをつけて何かを期待してくることは本当によくある。僕は宗教家でもないし悟りをひらいているわけでもない。謙虚でもないし、普通の人間なんだよ。ただの変わった年寄りだ。」と笑いながら言う。時々意地悪で辛辣なコメントもたくさんする。「残念だけど偽のアヒムサも受け入れなければならないんだよ」と経験からアドバイスをくれる。そして...その彼の奔放さに振り回されてきた家族の苦しみもわたしは知っている。彼ももちろん聖人君主ではない。

ああ、まだまだ全然足りてない。わたしには知恵も知識も経験もこの人の足元にも及ばない。本を読む。体で感じる。鬱の人を増やす加担をしている場合じゃない。それにもし仮に同じように妬むとするのであればこの知識の深さに嫉妬したい。


その面白い人はわたしにいろんなヒントをくれた。改めて、わたしが向く方向を再認識した。機能的な方向に進めば進むほど、愛おしくなる種類のものたちの方へ。

わたしは文章を書くことで自分をひとつにまとめている。まだまだ内側の作業で、このブログはわたしのれっきとした欲求の塊だ。それを手放せるようになるまではもう少し続けてみようと思う。
夫がわたしに言う。「ちょっとずつ要らないものを外していけばいい。その段階に来たんだと思うよ。で、したいことは続ければいい。」


というわけで長くなったけれど、決してSNSを利用している人自体を悪く言いたいのではない。自分自身を省みて、それから社会の在り方自体に疑いを持っている。
そして...なんといっても、先週あたりからSNSの画面にはありとあらゆる桜が咲き乱れていて、ああ、断然春は日本の方が情緒があるな、なんて、そう、嫉妬しているのだw

愛しい日々の連続を♡