2016年5月29日日曜日

愛しのヴィーガンボブン

Bo bun (ボブン): Phoに並び、パリ名物といっても過言ではないくらい、フランス人が大好きなベトナムの麺料理。細い米麺の上に、牛肉、揚げ春巻き、砕いたピーナッツ、野菜などをのせてタレでいただく、汁無しの麺。ベトナム語でBo=牛 Bun=米麺の一種 のこと。
用例:「これがパリで一番のボブン」と自分のお気に入りのボブンの店を張り合うのはパリジャンたちの特色。

ミントとパクチーが盛り盛りで、夜、ベトナム料理屋のテラスで食べるBo bunの美味しさといったら!!
でも噂によると本場ベトナムにはBo bunなんて料理は存在せず、フランスのベトナム料理にしかないらしい。そういえば日本でも食べたことがない。


ニースはもう昼間はノースリーブでうろうろできるほど、日差しが強くなっている。そろそろBo bunが美味しい季節だ。とはいえ、アジア料理はニョクマムやナンプラーなど魚醤が基本なので、ベジタリアンになってからは大好物のBo bunからも遠ざかっていた。
それでもどうにかベジタリアン使用で食べられないかしらと、いつもの食い意地の張った欲望でついに発明したヴィーガンボブン!!

アジア食材店で見つけた玄米の米麺に、
タイニで味付けした胡桃ときのこと茄子のベジタリアンミンチ、
細切り人参の甘酢漬け、
塩もみしたキュウリ、
ビオ食材店で売っているVegan揚げ春巻き、
たっぷりのミントとパクチー、
そして今回発明したとっておきのベジダリアン偽ナンプラーダレは、干し椎茸と昆布だし、砂糖、たっぷりのライム汁、そして秘訣は関西では欠かせない淡口醤油とそれからニュートリショナルイースト。ニョクマムを使わずに驚くほど似たくせのある味をだせたので、ボブン好きのCyrilもびっくり。わたしにやにや♡


愛しい日々の連続を♡





2016年5月22日日曜日

センスの正体

何事にもセンスが必要だ。と思う。会話をするセンス。服を着るセンス。香りを纏うセンス。目線をそらすセンス。言葉の使い方のセンス。笑うセンス。黙るセンス。踊るセンス。言い訳のセンス。嫌味のセンス。汚い言葉を吐くセンス。奏でるセンス。聴くセンス。綴るセンス。食べるセンス。飲み方のセンス。余白のセンス。描くセンス。色のセンス。気づくセンス。自分の中の醜いものに、気づくセンス。

必要なものを選んで、そこからもう一度捨てるものを選んで、組み合わせる。

選ぶことより捨てることのむずかしさ

いつからか、外見だけの美しさや、言葉のアピールだけの美しさ、というものに退屈を感じるようになってしまった。高いドレスを纏い、内面の孤独から目をそらせ続けている人は外見を際限なく取り繕う。意味のないお喋りで場を埋め尽くす。エレガンスからどんどんとかけ離れてしまう。そういう人たちをみると、もうエレガンスを諦めてしまったのだろうかと思う。それともそもそもエレガントであることに興味がないのかもしれない。フランス人の男性たちはとても優しいけれど、時々意地悪なので、そういう女性を見ると顔面の皮膚を全部首の後ろへ集めて架空のヘアゴムでしばるふりをして、揶揄する。

人が”将来を約束された”という表現を使う時、それは「経済的に裕福な生活ができる」、もしくは「名声を手に入れることができる」ことを指すのだろうか。わたしには、そのどちらもが一定の時期になら役に立つのかもしれないけれど、将来を約束するにはとても脆い種類のものだと感じてしまう。

生きるために踊ることの美しさ

精神世界をお洒落な売り物にしてしまった人たち、言葉たくみにそっちの世界の魅力をアピールする。物質主義的ではないのだと声高に叫んでいるその渦中をのぞいてみると、そこは結局のところ同じ世界。アースカラーでボタニカルで、地球的に”最先端”で植物的に”お洒落な”物、物、物。
そしてその内面にある排他的な感情を見つけてしまっては少しだけ落ち込む。そこにある偽りのアヒムサのトゲを見つけては、これはいったい何だろうと途方にくれる。仕方がないので目でぐるりと空を仰ぎ、ふうとため息をつく。こんな時フランスのジェスチャーは便利だ。

エゴと対峙した時にできること

こんなことを考えているわたしは、意地悪だと思う。
そしてどれもこれもわたしの中にもあることを知っている。
時には渦中にいたり、時には傍観したり、時にはまったく関係なかったり。
そしてわたしもまだここから抜け出す術を知らない。  

湧き上がるものがあれば自然に結びつく方法を知ることができる。
”本能”とよばれるものを使いながら、そこに飛びつかないセンスを磨く。
磨いていけているのだろうか?
嗅いだものを選り分ける。要らないものを嗅ぎ分ける。
...もしかしたら。センスは引き算の能力なのかもしれない。

大好きな女友達と久しぶりに話しこみ、別の大好きな女友達からメッセージが届き、また別の大好きな女友達から手紙が届く。どれも同じ日だなんて。なんて贅沢で素敵な日なんだろう。

愛しい日々の連続を♡




2016年5月19日木曜日

赤黒キヌアとベジタリアンのクスクス

今までずっとキヌアは赤を使っていたけれど、最近ハマっているのが黒キヌア。白<赤<黒で栄養価が高くなる。Quinoa noir(黒いキヌア)もしくはQuinoa sauvage(野生のキヌア)と呼ばれている。

Parisから帰ってきて、早速美味しかったあの店のベジタリアンクスクスを再現してみる。わたしの大得意の”舌の記憶を頼って”料理。付け合わせは、スムールの代わりに赤と黒のキヌアを混ぜて。



野菜だけのクスクスって味をだすのが結構むずかしいんじゃないかって思っていたけど、作ってみると意外に簡単に成功!
鶏も仔羊も必要ない。野菜だけで本当に美味しい。野菜は好きな野菜をどんどん入れる。2回作ってみて、1回目はとくに出汁をとらなかったのだけど、2回目は前の日にホワイトアスパラを茹でた汁を使って作ってみたら、やっぱりこくが出て美味しかったので、やっぱり野菜のブイヨンで作ると味が深まるなと実感する。(でも市販のブイヨンは全部同じ味になるのであんまりおすすめしません。使うのであれば有機のものがおすすめ。)

<ベジタリアンクスクス> 4人分
玉葱 大1個 (薄切り)
人参 2本(大きめにざく切り)
茄子 中2本(大きめにざく切り)
セロリ 1本
ズッキーニ 2本(大きめにざく切り)
ひよこ豆 100g(煮ておく、もしくは水煮を用意)
トマト 大1個
あればプルーン (種を除いて、半分くらいに切る)
あとは好きな野菜(かぼちゃ、パプリカ、かぶ、インゲン豆、カリフラワー、オクラ...etc)
白ワイン ひと回し
野菜のブイヨン 1.2リットル
パクチー 1束(みじん切り)
塩、胡椒
[必須粉末スパイス]
★パプリカ 小さじ1〜1.5
★クミン  小さじ1〜1.5
★コリアンダー 小さじ1/2
★しょうが 小さじ1/2
カイエンペッパー (辛くなるのでお好みで少々)

[加えると断然美味しくなるスパイス 家にある人はぜひ]
 カルダモン、シナモン、ナツメグ、クローブ、フェヌグリーク、ローズマリー

[お好みで]
アリッサや玉葱のコンフィ、アーモンドスライスなど

深鍋で中火、オリーブオイルで玉葱を炒め、透き通ってきたら★粉末スパイスを加える。 固い野菜から順に炒めていく(ズッキーニや他すぐに火の通る野菜以外)。最後にトマトとプルーンを加えて、白ワインを加え、アルコールを飛ばす。野菜のブイヨンと塩を入れて強火で沸騰させる。沸騰後はズッキーニ(他すぐに火の通る野菜)を加え、蓋をして弱火で20分。ひよこ豆を加えて5分。火からおろし、パクチーを撒き散らし、胡椒をふる。味見をして必要であれば塩も加える。

<付け合わせのキヌア>(もちろんスムールや他の穀物でもOK)
お好みのキヌア 250g(必ず、必ずよく洗うこと)
水 530ml
塩 少々

お好みで出来上がりにドライレーズンを混ぜてもいい。

鍋にキヌアと水と塩を入れ、強火で沸騰させる。沸騰したら弱火にして蓋をして10分(赤、黒の場合は12分ほど)。そのあと、火を止めて蓋をしたまま10分蒸らす。膨れ上がり具合を見て、ざるにあげる。

Bon'app!


出来上がりをすぐに食べてしまうんだけど、これは断然次の日が美味しい。その次の日はもっと美味しい。残っていればw
昔チュニジア系のフランス人の友人が、クスクスは前の日から作って1日中煮込まなければならないって言っていたのを思い出した。なるほどこういうわけかとその意味を知る。

クスクスって、もともとはフランスの料理じゃないのに、フランスの中ではフランス人が大好きな定番の料理。マグレブ領域を植民地として支配していた歴史の名残。植民地支配っていうのはけっして良いことではないけれど、こうやって食文化が混ざり合ったりして、そういうことも歴史に刻まれて国の文化が作られていく。

愛しい日々の連続を♡

2016年5月18日水曜日

月の光を含んだタルト


5月が来たよと風が誘う。
先になればなるほど赤さが増すもの。
その色に誘われて手にとる。
少しだけ、齧ってみる。
口の中に月から来たような冷たい酸っぱさが広がる。

残念ながら生の美しさが体にいいとは限らない。
女たちが美しさを受け継いでゆく場所は鏡の前、そして台所。
混ぜる。練る。切る。舐める。天火に入れる。


天火から出てすぐよりも、一晩月の光を染み込ませたほうがいい。
美味しいのは翌日の朝。
口の中で甘いと酸っぱいがジュワッと広がる。
寒さと暑さが混ざったような不思議なタルト。
この季節にぴったりの、月の光を含んだタルト。


Tarte à la rhubarbe vegan
ルバーブのヴェーガンタルト


愛しい日々の連続を♡



2016年5月15日日曜日

Parisのベジタリアン考②

Parisのベジタリアン①続き

わたしが今住んでいるニースは、Parisに負けないほどの観光地だ。コート・ダジュールの空と海の碧さを求めて世界中の人がやってくる。その中でもアメリカやイギリスからのアングロサクソン系と、ロシア人の観光客がぐんをぬいている。ヴィーガンが最近の流行になっているのは、やっぱりアングロサクソン系の人たちがもとになっている。だからというわけなのか、ニースにもそういった国の人たちにうけそうなベジタリアンのレストランが多い。つまり、例えば、グルテンフリーのパンケーキと果物のブランチ、大きなサラダとスムージー、マフィンにブラウニー、のような”カリフォルニア”がそのままきたようなお店たち。もちろん美味しくてわたしも好んで時々行くけれど、今回Parisに来て、改めて気づいたことがある。フランスにはそれはそれは歴史のある食文化がある。それはブランチではなくフレンチ(面白くないw)もちろんフランス料理はお肉や乳製品が主流であるのだけれど、菜食だからといってフランスの食文化を受け継げないわけではない、ということ。


親友のセリーヌがみんなで集まろうと、ある日のお昼に予約してくれていた14区にあるL'aquarius(ラクアリウス)というベジタリアンレストランもよかった。Veganではないけれど、ここはフランスの家庭料理をベジタリアンで食べられる。本当にこれが野菜だけ?と思うほどに結構食べ応えがあるものばかり。


友人たちは、ラザニア、タルティフレット(普通はフランスの家庭料理、じゃがいもとベーコンのチーズグラタンのこと)、クスクス、とそれぞれにメインを注文。 わたしが選んだのは、胡桃のロティのきのこソースがけ。これお肉入っていないの?と思わずびっくりしてしまう。付け合わせにはきのこのソースと合う!ステファンがクスクスを頼んでいたけれど、ソイミートのケバブ付きで、とっても美味しそうだった。




今回、友人たち6人の食事で、セリーヌがわたしとCyrilふたりがベジタリアンだからとここを予約してくれたのだけど、わたしたち以外の4人はベジタリアンでなかったが、みんな完食、お腹いっぱい、満足していた。料理の量も(フランス人は質もそうだけど、量にもうるさいw)よくて、ベジタリアン以外の人と 混ざっていく場合はとてもいいレストラン。

L'aquarius
40 rue de Gergovie, Plaisance-Pernety, 75014
01 45 41 36 88 


Parisで有名なVeganンレストランというと、マレ地区にあるPotager du Marais(ポタジエ デュ マレ)。


Cyrilはほうれん草のラザニアを。ラザニアはCyrilの大好物。


わたしはCassoulet de la mer(海のカスレ)を注文。カスレといえば、トゥールーズの名物。くたくたに煮た豆と豚肉やソーセージがゴロゴロ入った煮込み料理。ベジタリアンのカスレって?しかも海のカスレってなんやんねんと半ば興味だけで頼んだ。メニューにはレンズ豆と海藻と豆腐のカスレと説明されている。

食べてみると、これがまた驚くほど食感がカスレ!なるほど海のカスレというだけあって、海藻味なのだ。ワカメと海苔の風味がふんだんに香っていて、あ!日本の味だ!懐かしい感じが口全体に広がる。なんとも不思議で美味しい美味しいカスレだった。付け合わせにはそばの実とジャスミンライスを半々にしてもらう。


ここのお店のムッシュが優しいのなんのって。料理の細かな説明はもちろんのこと、ほんとにParisの住民です?と聞きたくなるほど(失礼w)気配りがとおっている。お会計を済ませ、コートを着てさあ、と帰り際、友達へのお土産に買ったワインが入った袋をCyrilが落としてしまい、ガチャーン、見事に床にワインの赤が広がる。狭い店内、しかもお昼時、謝りながら必死に片付けようとしていると、「気にしないでください。よくあることですし、僕の仕事ですから。」というだけでなく、お客さん全員に「ラッキーだ!料理にとっても合ういい香りが楽しめますね!」と声をかける。

Potager du Marais
24, Rue Rambuteau, 75003 Paris
01 57 40 98 57


Parisでも、トラディショナルなクラシックなカフェよりもアメリカナイズされたモダンデ ザインのカフェが多くなっているし、ベジタリアン向けのレストランもスーパーフードやスムージー主流のお店も多くなっているのだけど、それでもニューベ ル・キュイジンヌを菜食でアレンジしたお店や、フランスの家庭料理を基本に菜食にアレンジしたレストランたちがParisにはある。今回の訪れたレストランは”フレンチ”だった。


2016年5月14日土曜日

Parisのベジタリアン考①

行きたいバーだのベジタリアンカフェだの古着屋さんだのってチェックしたいことろはいっぱいあったけれど、友達たちからの誘いのSMSでことごとく計画は吹き飛ばされていったので、菜食のお店は10軒以上言ってみたいことろがあったのに、結局行けたのは3軒だけ。バーなんてまったく行けなかったw

とてもよかったのが、11区にあるSoya cantine bio(ソヤ カンティーヌ ビオ)というレストラン。ここには前から来てみたかったので、着いたその日のランチで予約していた。空港からスーツケース引っ張って直行したのだ。


13時、平日だというのにあれよあれよと言う間にどんどんと席が埋まっていく。Cyrilとふたりして迷いに迷って、前菜はふたりともMezze(ひよこ豆のフムスやビーツのペーストなど、パンにつけて食べられるディップと焼き野菜の盛り合わせ)を、メイン料理にはわたしはクスクス、Cyrilはマサラカレーを。


この前菜の驚くほどの美味しさ!!ベジタリアンの前菜というと、結構ひよこ豆のフムスが出てくる率が多いのだけど、ここのフムスは初めての味付け。アニス風味なのだ。それにビーツのペーストはゴマ風味!ご飯、いや、パンがすすむすすむ!それからセロリとパネ(白人参)のペーストはココナッツミルク風味。もうたまらなくツボなハーブとスパイス使い。ふたりしてお皿は舐めたようにパンでソーセしてピカピカにしてしまう。


メインのクスクス。スムールは普通の小麦粉かキノアかを選べる。キノア好きとしては迷わず。ベジタリアンじゃなかった時は子羊や鶏肉、魚介のクスクスを食べてきていたけれど、ベジタリアンになってからはちょっとクスクスからは遠ざかっていた。というのも、野菜だけのクスクスはどこで食べても、スパイス味のスープの域を越さないというか、どこか物足りなさを感じていたからだ。でも、今回思い切ってクスクスを選んでよかった!ここのクスクスは今まで食べたどこの野菜のクスクスよりも美味しい!野菜のエキスたっぷりで、何種類もの野菜がゴロゴロ入っている。敢えてゆうならば、辛さが全くなかったことが残念。付け合わせに手作りのアリッサはもちろんあったのだけど、ニンニクがきつすぎて、生のニンニクが苦手なふたりにはどうしても手が出せなかった。


Cyrilはクスクスよりも、自分が選んだマサラカレーがツボだったらしい。ココナッツミルクペーストで、これもゴロゴロ野菜が入っている。これはもういつも食べてる美味しい美味しい鉄板の味。失敗がない。


ところで、スーツケースを最初に席に通してくれたお店のアジア系のマドマワゼルに預けて、食事をしていた。満席だし場所をとるので店の奥で預かっていてくれるとのこと。しばらくしてメインが終わったあたりでオーナーのマダムが突然わたしたちの席にくる。「あの...スーツケースはおふたりのものですよね?」
そうですよと答えると、さっきのマドモワゼルが安堵の表情でオーナーの後ろから顔を出す。「あーよかった。どのお客さんのだったか忘れてしまっていたから。誰か忘れて帰ってしまったかと思って。もしかして爆弾だったらどうしようってキッチンの人たちと騒いでいたの!」と話しかけてきた。

ああ、そうか、まだあのテロの事件から半年しかたっていないんだ。あれ以来、パリ市民にとってスーツケースの忘れ物ほど怖いものはないみたい。


Soya cantine bio
20 rue de la Pierre Levée
75011 Paris
Tél : 01 48 06 33 02

Parisのベジタリアン②へ続く


2016年5月11日水曜日

番外編:Parisのアフリカ

(Parisに在るもの 後編はこちら) 

サンマルタン運河沿いに歩き、よっぽど注意していないと見逃してしまうその細い路地に入る。そこはまるで秘密基地のようで、ぽっかりと扉が口を開いたように存在している。


サンマルタン運河沿いのリトルアフリカ。Parisにあるアフリカのジャングル。

ずっと来てみたかった、ここはLe comptoir général(ル コントワーr ジェネアル)
 

おそるおそる入ってみると、そこは忘れられた昔のホテルのようなエントランス。ギラギラの頭上のシャンデリアと赤い絨毯の廊下を進む。壁に飾られているのは歴代のアフリカの独裁者たちの肖像。


アフリカのゲットー(移民系の集合密集住居地区)の文化やアートを集め、紹介している、パリの真ん中でアフリカにいるような気分になれるとっておきの場所。



ここの創設者は幼馴染同士のEtienne Tron と Aurélien Laffon。アフリカの音楽や文化も身近な地域で育ったパリジャン。 DJ、音楽プロデューサーとして活動しているふたりは、レコードレー ベルを立ち上げ、アフリカのクラブミュージックのコンピレーションアルバムをリリースし、注目されることが少なかったり、触れる機会があまりない、アフリカの素晴らしい文化的活動のディレクションをし、発表の場を設けたり、ビジネスに結びつけるようなサポートする非営利組織としてこの場所を創立したそう。平日は、環境問題に取り組む企業や団体に場所の貸し出しも行っている。



この室内の設備はすべて、オーガニックのものを使い、雨水を回収しそれを利用、廃材を再利用したりと、環境への負荷を軽減することを一番に考えられている。



カフェでアフリカ料理や南国ジュースを楽しんだり、2階にはヴィンテージショップやアフリカのヘアスタイルを体験できるバーバーもあるし(!)、夜にはクラブになる。ライブが企画されたり、映画が無料上映される日もある。日曜日は子供向けのワークショップが企画されることもあるそう。


ただ不思議なのは、その日ここにいてひとりもアフリカ系の人たちは見かけなかったってこと。
結局はBoboだけが集まる場所になってしまうんだろうか。それだったら...とても残念だ。


LE COMPTOIR GÉNÉRAL
80 quai de Jemmapes 75010

美味しいベジタリアンレストランについては次回♪




2016年5月8日日曜日

Parisに在るもの 後編

(Parisに在るもの 中編からの続き) 

夜11時過ぎ、セリーヌの家からの帰りはメトロ7番線に乗った。男がひとりで大きな声で話している。いや、イヤホンをつけて誰かと電話で会話をしている風なのだけど、その内容は延々とひとりで継ぎ目もなく卑猥で耳触りな言葉を羅列しているだけ。

夜のメトロでは、日本のような酔っ払いのサラリーマンを見ることはないが、薬漬けになっている人たちを見かけることは少なくない。時々孤独が渦巻く車両に紛れ込んでしまう。


夜12時前、ジルの家からの帰りは5番線に乗った。若い男が大きな声で一人で喋っている。よく聞いてみると喋っているのではなく、ラップで歌詞を歌っている。いや、もしかしからリズムにのせて喋っているだけなのかもしれないが。

”Je ne pense qu'à moi. Je ne pense pas aux autres.”
俺は俺のことしか考えてない。俺は他の奴のことなんて考えない。

こんなことわざわざ音にして言う必要があるのだろうか。もしくはリズムにのせてでしか表現できないのだろうか。向かいに座っている若いマドモワゼルは、心底鬱陶しそうな顔をしている。右隣のムッシュは無関心。携帯に夢中。白々と蛍光灯が光るメトロの中は、孤独だ。ちんけな歌詞をラップで歌う男の声だけが響きわたっている。




セーヌ沿いを歩く。
Cyrilと二人して結局何がしたかったって、”flâner”(フラネ):ぶらぶら歩く。気ままに散歩すること。住んでいた街を観光する。


Parisは観光で来るところ、住むところじゃないよ、とゾエは繰り返す。Parisはそんなに好きじゃない、スイスの山近くに住みたい場所があるんだとジルは話す。
子供ができて部屋数のあるアパルトマンに住まなければならないので郊外に引っ越しを決めた時、セリーヌはParisから出たくないのに、とボヤいていた。




Parisから帰ってきて、わたしの生活は変わった。重くて頑として動かなかった石がコロリとひとりでに移動したように、状況が変化する。ハイハイこっちこっちと突き動かされるように、自分の意思とは関係ないものに引っ張られる。そういう時のわたしの体には妙に根拠のない自信がみなぎっている。もしくは、自分の中に蓄積していた要らない部分がリフレッシュされた感覚。実をいうといつもこうなのだ。Parisから帰るといつもこう。この感覚はこれで4回目。インドに行ったことがないから詳細や真相はわからないが、インドに行くと何かしら自分を取り巻くものがいろいろ変わるとよく聞く。Paris嫌いな人には考えられないかもしれないけれど、なぜかわたしにとってはそれがこの場所なのだ。奇妙だ。もともと最初は、フランスという国の首都、という知識だけで、そもそも特に憧れがあったわけではない。

もし、誰か他の人がParis以外でも、自分にとってこんな風になる土地のある人がいるのなら、話を聞いてみたい。どんな感覚なのか、自分と同じなのか違うのか、その土地はどんな場所なのか。


リリシズムと、ウィットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと...、そんなものをParisから除き去ってしまったら。
そんなこと、愚問だった。なぜって、この街にはやっぱりあの力が渦巻いているからだ。何かが張り巡らされている不思議な磁界。ここでどうにか気が狂わずに暮らしていくには、リリシズムと、ウィットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなものたちを駆使して生きていかなければならない。
跡に残る美しい歴史ある建物たちは、街を横切る河は、すべてを知っている。



”Paris est la grande salle de lecture d'une bibliothèque que traverse la Saine”
- Walter Bendix Schönflies Benjamin -
「パリはセーヌ河を横断する図書館の大閲覧室 」(拙訳)

ドイツの人、うまいこという。





Parisに在るもの 中編

(続き Parisに在るもの 前編)

二度目にParisの街を訪れた時から、なぜかここの土地を踏むといつも、ああ、やっと帰ってきた、と思う。これについてはただの懐古趣味的センチメンタルかもしれない。Parisには大好きな女友達が二人住んでいる。Cyril以外で、このふたりと会う時だけはわたしはフランス語でも饒舌になれる。

2年半ぶりに会うセリーヌの、初めて会う子供。パパが大好きすぎる2歳。それはもうよく喋る喋る。ママもパパも彼女には何かしらきちんと質問形式に会話をするので、もう受け答えがきちんとできる。Non!は何よりもはっきりと伝える。すでにもう立派なパリジェンヌだ。すでに立派にこまっしゃくれている(笑)

それにしてもなぜ親友という生き物たちは、日本だってフランスだって、揃っていいお母さんになるのだろうか。



わたしが一度目の結婚で離婚を決めた時、酔っぱらっていたかなんかで”わたし離婚する!”と日本から携帯でゾエに連絡したことがあった。「Ayami、酔っぱらってるでしょ。みんなね、離婚しちゃう。フランスなんて半分は離婚するんだよ。それってほんとうに寂しいことだと思う。そんな簡単に離婚したらだめだよ。」とわたしをたしなめた。
わたしはもちろん彼女の忠告を聞かなかったが、そういう彼女も、半年後に離婚したw 自分もやん!って、その時はどれだけ笑いながら彼女をなじったかしれない。
今回、テロのこと、菜食のこと、いろんなことを話して、話して、またゾエのことを好きになった。



この日はCyrilのいとこのジルの家に遊びに。手料理をご馳走してもらう。とはいえ、一人暮らし、仕事バリバリの彼はプライベートも仕事も一緒くた、広いアパルトマンなのに、趣味と仕事のガラクタ(としかわたしには見えない、ごめんw)でギュウギュウで、最先端の料理器具を使いながらピカールの冷凍食品も駆使しながら、それでもちゃんと前菜、サラダ、メイン、デザートって用意してきちんとひとつのコースを用意してくれている。こういう文化は男でも女でもフランス人に自然と根付いているんだろうな〜といつも関心する。始めから終わりまでもうずっと喋りっぱなしで、食べ過ぎでなのか、笑い過ぎでなのかもはやわからないけれど、お腹を抱えながら笑って完食。アペリティフにジルおすすめのシャンパーニュの梅酒割り、初体験。フランス人ってけっこう梅酒好き。
帰り道、ジルにも早くいい人をって、Cyrilは親戚のじじいみたいなことを言っていたw



セリーヌは髪を切ったばかりのわたしに、前のわたしの髪型の写真を見て、「これ、日本人がよくしそうな髪型だからあんまりよくない。今の方が全然個性的でいい!」という。とりあえず憎まれ口をはさみながら、個性的であることを褒める。でもやり過ぎで下品なものはNon!(もしくはBeurk!:げ〜!の意味)と、ぜったいにみとめない。


バーだのベジタリアンカフェだの古着屋さんだのといっぱい行きたいところがあったのに、そういう計画は彼らからの誘いのSMSで結局のところ毎日ことごとく吹き飛ばされて、家に遊びに行ったりその辺の適当なカフェに入り浸って何時間も話し込んだりあっと言う間に時間が過ぎる。

こうやって懐古趣味的センチメンタルが育っていく。ナルシズムとロマンチシズムが混じり合った突発的な涙みたいなもの。もっとも、セーヌ河はそれを受け入れ流す寛容さを持ち合わせるほど慈悲深くはない。勝手に湿りたいだけのわたしたちは放っておかれるだけ。

とにかく。リリシズムと、ウィットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと...、そんなものはなから気にせずに、セーヌは流れている。

後編へ続く

Parisに在るもの 前編

"If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life, it stays with you, for Paris is a moveable feast"

もし幸運にも若者の頃、パリに暮らすことができたなら、
その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。
パリは移動祝祭日だからだ。
E.ヘミングウェイ( 高見浩 訳 新潮文庫『移動祝祭日』より)


4度目のParis、2年半ぶり。といっても前回は2日間だけの弾丸滞在だったから、住んでいた時から数えれば6年ぶくりくらいになる。

昔から何度かここに書いているのだけど、Parisには不思議な磁界がある。と思う。
何か大きな力が街全体に渦巻いている。おそらくここに住んだことがある人の中には、この感覚がわかる人がいるのではないだろうか。長い間わたしは、わたしのこの感覚やParisの街に対する感情を、ただの懐古趣味的センチメンタルなんじゃなかろうかと自問していた。パリ好き症候群のただの戯言なのじゃないのかと。


でもやはり今回も同じものを感じた。その力がそこにあった。よほど敏感な人なら観光で来た人も感じるのかもしれないけれど、とにかくどう伝えればよいのか、奇妙な何か。言葉で無理やり手繰り(たぐり)よせるならば、それは”何かと何かを繋げるもの”。それは人と人かもしれないし、人と物かもしれないし、あるいは人とある出来事かもしれない。そういうものが街全体に糸のように張り巡らされているような感じ。Parisの住民全員がそれを感じているとは思えないが、 もしそれを感じる能力がある人がParisに住んでいるのであれば、それと折り合いをつける何かしらの方法を見つけ出して暮らしていかなければ、果てには気が狂いでもしてしまうんじゃないかと思う。ヘミングウェイだってそうだったんじゃないのかと、わたしは密かに疑っている。


そしてここでは、リリシズムと、ウィットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなものだけで生活が成り立つような気さえする。例えばそんなものをParisから除き去ったら跡には何が残るのだろうか。何が在るのだろうか。


中編に続く。