2018年1月7日日曜日

再開、エレガンス考2018

男友達に誘われたカウントダウンパーティに顔を出した後、友達が働くJOYAのパーティに参加する。もうその二件の梯子の時点でシャンパンとワインでかなり出来上がっている。そのままみんなで連れ立って美術館併設カフェのエレクトロイベントになだれ込む。ガンガンの音楽にテンションは最高潮に上がりもみくちゃになりながらも人と人との間の隙間で踊る。他人の汗とタバコの匂いも酔って鈍った嗅覚ではさほど気にならずにいられる。午前三時、「もう帰るよー」と周りの友達たちに引きずられるように会場を出る。あのまま朝まで踊り続けていたかった。アパートに帰り着き、シリルとふたりベッドにどさり。

久しぶりに踊り狂う

初日の出どころではない。新しい年に一日(ついたち)の朝があったかさえ記憶にない。どしどしSNSにあげられている知人友人の立派な新年の挨拶と抱負を、夕刻、西の空へと沈み始めた初日の出とともに、ソファに寝転がりながら読む。そして、愕然とする。知人友人のこの立派な様と比べてわたしは一体…


そしてソファに深く沈みながら初日の出が完全に沈むまで考えた。わたしの今年の抱負は何にしようか。

そしてうにゃうにゃ考えながら、ネットを流し見しながらなんとなく辿り着いた、ある人の書いたブログの文章を読んで、思わずほほうーと目を見開いた。その文章の中に怒りのエネルギーが充満している。書いてる本人の内側にある怒りを発散させてるような文章。読んでいて怒りの湯気がもうもうと浮き上がってきそうな気配。
そういえばわたしもフランスに住み始めた時、こんな文章を書いていたなとふと思う。日本のあり方に憤りを感じていた時期だったので、内容自体は日本のあり様に疑問を問いかけるようなものだった気がするが、内容自体が問題ではない。文章に怒りが溢れ出しているということは、書いてる本人の内側が怒りでいっぱいってことだ。怒りやら悲しみはひとつの起爆剤になり得るからそれをうまく使うのはひとつの手だけれど、人の目の前におおっ広げに見せる、すなわち他人に向けて発散させるのはエレガントではない。
ということを改めて認識した。

久しぶりのこの10cmの感覚に調子に乗りに乗る

フランスに住み始めて二年と半年。最近やっと肩肘張らずに生活できるようになってきて、ふと気がつくと言葉の面やら日常生活やらふいに直面する問題への対処やら、随分と色んな面で楽になっているのに気づく。

そしてふと、クリスマスのバカンス中、義母とふたりでお茶を飲みながら「自分が恐れているもの」について話していた時のことが蘇った。きっと自分はコントロールを失うことが恐いんだと思うと答えたわたしに義母が言った言葉。
「この世のすべては不変で相対的に存在し、起こり得る出来事は本当は誰にもコントロールはできないのよ。コントロールしようと必死になればなるほど、世界の成り立ちに逆らうってことだから自分で自分を不幸せにしてしまうのよ。」


怒りにせよ、過剰な自意識にせよ、他人に醜いものをぶつけるのはエゴに操縦されている証拠だ。不変に逆らうとガチガチに固まって動けなくなる。それはエレガントな行為とは真逆の状態。

踊り狂って迎えた2018年。お節ははおろか、お雑煮さえも作らずに日本人らしいこともまったくできず始まってしまった。それでも楽しくて幸せな始まりであることには違いなく、もう取り繕っても仕方がない。立派じゃなくても適当だってなんだって、時々毒づいたって皮肉めいたっていいから、とりあえずここはひとつ、ガチガチにこわばらないで、"肩の力を抜いたエレガンス"。今年はこれを研究課題にしてみようかと思う。

2018年もめいいっぱいの愛をこめて。
愛しい日々の連続を♡


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